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「おじいちゃんの里帰り」
トルコ系ドイツ人家族の物語
背景に移民の社会的問題
 

 ドイツ在住のトルコ系ドイツ人を考える上で、大変興味深い作品が公開される。多くのトルコ人が1960年代から労働力としてドイツへ招き入れられた。今や、彼らは、差別、格差と闘いながら、ドイツ社会へと同化しているが、自身のアイデンティティへの固執は別次元の問題だ。
「おじいちゃんの里帰り」は、ドイツ在住のトルコ人家族の物語である。今作の社会的背景たるドイツにおけるトルコ移民について先ず触れる。

トルコ系ドイツ人

「バスを運転するおじいちゃん」
(c)2011 Concorde Films

 現代の世界において、経済格差に端を発する移民問題が大きな社会的問題となっている。
ごく最近では、アフリカからの移民がイタリアに上陸し、多くの死者が出たニュースがある。古くは、旧宗主国イギリスへのインド・パキスタン移民、同じく、旧宗主国フランスへのマグレブ移民(アルジェリア、モロッコ、チュニジアの北アフリカ3か国)、そして、ドイツへのトルコ移民の問題がある。戦前からのイギリス、フランスの場合は、負の遺産の側面があり、ドイツの場合は、戦後復興のための労働者不足から招き入れられた経緯がある。トルコ移民は当初、単身者中心であったが、70年代から家族の呼び寄せ措置がとられ、彼らの定住化が始まった。隣国フランスの場合、マグレブ移民は、いわゆる2等国民扱いであり、主として単純労働に就いている。ドイツも同様である。そして、世の中が不況に陥ると、途端に外国人労働者排斥の動きが起り、極右政党が騒ぎ出す。移民が職を奪うから国へ帰せと主張し、フランスの極右政党、国民戦線の組織的な活動が代表例であるが、近年、ドイツのネオ・ナチ、オーストリアの極右政党の台頭などがある。貧しい白人層が、一段下の身分階層へうっ憤をぶつけている構図といえる。移民といえども定住者はドイツ国民と同様に税金を納め、極右の主張は当たらない。
ドイツのトルコ移民は、既に3世の時代に入り、本作「おじいちゃん…」は、その世代間の温度差を中心に話を進めている。


映画に見る移民世代


 特にフランスでは、映画や芸能界で4代目の移民たちが活躍している。フランス映画界で一番勢いのあるのは「バァール」と俗称されるマグレブの映画人たちである。その代表がカンヌ映画祭で5人の俳優に主演男優賞が与えられた「現地兵」(06)である。第一次大戦時に、植民地アルジェリアから召集された現地兵の戦いの物語である。ドイツでは、トルコ系映画人の第一人者は、若いファティ・アキム監督であろう。
ドイツ、フランスの移民たちは、それぞれの国家への同化と自己アイデンティティとの狭間で揺れ、そこが彼らの悩みとなっている。


移民たちのアイデンティティ



 「おじいちゃん…」では、トルコ系移民は自己のアイデンティティとして、イスラム教、大家族主義、そして、トルコ語を持っている。この3要素は、ほぼ体質的なもので、トルコ人にとり、ドイツへの同化を難しくしている。フランスでは、マグレブ人たちはフランス語を会得し、同化し易くなっているが、トルコ語とドイツ語の違いは大きく、一代目はドイツ語に大変苦労し、言葉の壁が、同世代の同化の難しさの因(もと)となっている。


多様な家族像



 一代目のおじいちゃんは、労働力としてドイツに移住し、肉体労働で家族を養い、大家族の上に君臨している。しかし、子や孫たちは、それぞれに問題を抱えている。作中、孫娘は、付き合っているイギリス人青年との間に子供が出来、そのことを母親に打明けられず、大いに悩む。孫息子はサッカーのドイツ対トルコ戦で自分はどちらの側か、少年ながら悩む。おじいちゃんは、ドイツ国籍は何かと便利だと妻にせかされ、ドイツパスポートを手にするが、何か不満げな日常的悩みを抱えている。ある時、一族の会食の席で、おじいちゃんが故郷の村に家を買い、突然、夏のバカンスはトルコと宣言。子や孫たちは気乗り薄だが、家父長の鶴の一声で、渋々バスを仕立てての里帰り。祖父は一族を乗せたバスのハンドルを握り、故郷入り。
絶対的な家父長の権限、結婚も家父長の意向次第、渋々ながらも最後はまとまるトルコの大家族制度。個を主体とするドイツ文化に対し、家族優先のトルコ文化、この文化の違いが作品を彩る。


移民2世の女性監督



 監督の体験を盛り込み現実感
監督・脚本は、2世世代のヤセミン・サムデレリ。共同脚本は妹のネスリンで、2人の実体験がベースとなっている。共同脚本のネスリンの発言が今作の本質を言い当てている。「トルコ系移民は自身がドイツに溶け込んでいないと思う人が多く、移民というテーマは、かつてないほど、刺激的になっている。今作で我々移民がどのように始まり、外国人であるとはどういうことかの問いについて、客観的に描いたのが『おじいちゃん…』」。
ドイツ社会では、移民たちは周囲から奇異な目で見られる。一段と低い存在と考える初代、一方、ドイツに同化しようとする若い世代との葛藤が作品の芯であり、そこを、姉妹は脚本化したが、何と50稿まで書き直している。特に2人の子供時代の体験を盛り込み、現実感をもたらせている。


中途半端な存在



 国家は末端の個、家族を基盤として成り立っている。今作で描かれる家族は、移民という立場に置かれ、二つのアイデンティティを負わざるを得ない状況の中で生きている。旧世代は、より純粋な形で、若年世代は、ドイツ、トルコの二つのアイデンティティを取り込もうとし模索している。トルコ系の若手世代の映画人たちは、ドイツで生活しながら、自己の内面のイスラム文化にも向き合わざるを得ないことを認識している。当然、自身がドイツ人かトルコ人か、大いに悩むところである。そこで導かれた考え方が、ドイツで暮らしながらも、内面的にはトルコ文化を受け入れることである。即ち、ドイツ人とは違う、トルコ系ドイツとして生きる道である。本来の固有の文化を、差別の中でも、誇示し、自己のアイデンティティを証明することである。この問題、在日韓国人、朝鮮人の生き方と酷似している。彼らは、韓国人、或いは、朝鮮人か日本人かが問われ、どちらでもない居心地の悪さを味わうケースが多く、トルコ系ドイツ人と同様な立場と思える。この居心地の悪さの克服の一方法として、自己アイデンティティの確認が重要な役割を果す。


おわりに



 「おじいちゃん…」は、若い世代がどんどんと国籍を変える昨今であるが、この自己アイデンティティの確認作業が続く現状を描いている。社会的テーマの展開ではなく、一家族の物語に仕立て、身近さを引き出しているところに今作の特徴がある。大きな円の中心に祖父おじいちゃんが、その周囲には子供や孫たちと、小宇宙が形成されている。その小宇宙の積み重ねが、この世界であろう。



(文中敬称略)

《了》


上映日程 
11月30日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町(有楽町イトシア、イトシアプラザ4F)ロードショー。以後、12月14日から名古屋シネマスコーレ、シネマテークたかさき、12月21日からテアトル梅田ほかで全国順次公開



映像新聞2013年11月25日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家