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映画「オーバー・ザ・ブルースカイ」
人生の哀歓をつづる快作
全編に流れるブルーグラス

 カントリーミュージックに乗せ、人生の哀歓をつづる快作「オーバー・ザ・ブルースカイ」(以下「オーバー」)。が公開中である。作品全体にカントリーミュージックから派生したブルー・グラス・ミュージック(以下ブルー・グラス)がBGM風ではなく重要な脇役としての牽引役を果たしている。

心地良いブルー・グラス 情感の表現に重要な脇役

「オーバー・ザ・ブルースカイ」
(c)2012 Menuet Topkapi Films

 まず、手始めに「オーバー」の主潮を成す音楽について述べる。ブルー・グラスとは、アイルランド移民が米国に持ち込んだとされ、電気音源を使わず、アコースティック ギター、バンジョー、マンドリン、ウッド・ベース、ヴァイオリンで編成されている。その音楽は弾むようなリズム感と心地良さがあり、沖縄音楽のノリに相通じる。このブルー・グラスの電気化がウェスタンであり、本場、アメリカでは、その素朴さや泥臭さから、やまあい山間の地方の音楽として定着し、根強い人気を誇っている。我が国でも、ブルー・グラスは一定のコアな層により支えられているが、ロックに押され、ファン層の高齢化が進んでいるのが現状である。


限られた映画のテーマ

「オーバー・ザ・ブルースカイ」
(c)2012 Menuet Topkapi Films

 映画のテーマは人類有史以来、種類は限られている。愛、性、家族、友情、別離、暴力、裏切り、復讐などであり、テーマ自体は限られている。これは文学も同様だ。この限られたテーマをいかに肉付けするかが、芸術家の腕、感性、知性であり、この肉付けが映画の資質を決めるものといえる。
  本作「オーバー」もテーマは定石通りであり、そこをどのように人間性、時には社会性を塗り込めるかに掛っている。

 

愛と破局


 主人公は中年に差し掛かったカップルであり、男は、アメリカのカウボーイに憧れ、こよなくブルー・グラスを愛し、自分の農場を持ち、牛、馬に囲まれ暮らしている。そして、仲間たちとバンド活動も行っている。彼が見染める女性は、絵に描いたような金髪、青い目のスリムな美女であり、あたかも、西部劇で荒くれ男たちの憧れの的のような存在だ。彼女は、タトゥ・デザイナーで、自身も、体中、刺青を彫り込む、一般的な社会的規模に外れたタイプである。2人は一目惚れで、結婚し、農場の仕事の傍ら、女性は彼からブルー・グラスの手ほどきを受け、バンドのボーカルを担当するまでになる。総てが順風満帆、型通りの幸せな愛の出発である。物語の節目、節目にステージのライブを盛り込ませ、ブルー・グラスが観客をノセていく仕掛けが楽しい。

幸せの絶頂


 愛する2人に、待望の女の子が生まれる。当初は、父になることをためらう彼だが、生まれた子に対しては、目の中に入れても痛くないほどの子煩悩な父となり、それを満足そうに彼女は見詰める。シナリオ構成としては、この幸せの絶頂から、急転直下、難題を挟ばねばならぬのが、フィクションの要諦である。


難病の子を抱えて


 ここで編み出される一手が、可愛い娘の不治の血液ガンである。結果的には、この難病を境に物語のトーンは激変する。必死の看病も虚しく、子供は亡くなる。


鳥の死


 幼い娘が一時帰宅を許され、農場の我が家に戻る。そこで彼女は、べランダのガラス屋根に鳥がぶつかり、死ぬのをたまたま目にする。
  生まれて初めて見る、命あるものの死に対し、幼いながら、大きな衝撃を受ける。娘のあまりの落ち込みを見かねた父は、鳥にはガラスがわからず、その向こうを目指し、ぶつかったと説明し、ゴミ箱に捨てるために死骸を渡すことを求める。しかし、日頃、従順な娘は頑強に拒否し、命あるものへの執着を見せる。
  この鳥の死が価値観の違いを現すものとして、作中大きな伏線となり、ラストの愛する2人の破局へとつながる。過去と現在を結ぶフラッシュバックの多用も上手い。


愛娘の死


 必死の介護もむなしく、愛娘が病院で亡くなり、両親は悲嘆に暮れる。妻の悲しみは深く、神経が苛立つ毎日となる。彼女の苛立ちは夫へ向けられ、最初は黙って受け入れていた夫は、次第に妻と口論するようになる。悲しみを外へ向けることにより、内的なものを発散させる心理であり、妻は自分だけが娘を育て、夫には熱心さが足りないとなじることから2人の言い合いが始まる。この言い合い、妻がより深く悲しみに暮れているとする論理で口火が切られるが、実は、ここに2人の自己主張の応酬という形で会話が成立する。この会話こそ、我々、日本人に欠けるものであり、西欧社会との違いが浮き彫りとなる。日本映画の場合、言い放し、聞き放しが多いが、会話を積み重ね、次なる到達点へ辿り着く文化が欠如していることに「オーバー」は気づかせてくれる。


心情的西部劇


 「オーバー」の舞台は、西部劇の本場アメリカではなく、ベルギーの片田舎である。登場人物もピストル片手に正義派が悪漢どもを懲らしめるパターンとは程遠い。
  2人の出会い、熱々の2人の幸せ一杯のライブでの熱唱と、メロドラマ的に進行する。そこは、殺伐な西部劇スタイルはない。むしろ、2人の築き上げる愛が前面に押し出される。この心情を乗せ、支えるのがブルー・グラスの音の世界である。


異なる価値観


 最終的には、愛娘の死を生命の必然と考える彼と、心情的に魂の存在を信じる彼女とがぶつかり合い、悲劇的結末を迎える。彼女の死を悼み、彼のバンド仲間たちが病室で楽器を手に、讃美歌を合唱し、良き妻、良き仲間であった彼女を送り出す。
  最後の最後までブルー・グラスが効いている。



ベルギー製ブルー・グラス


 本作のミソは、ベルギーをブルー・グラスの本拠としたところにある。
  幸せなメロドラマの後の人生の悲劇、殺し合いの西部劇ではなく、しっとりと、人生のほろ苦さを描いている。
  原作は主役の夫を演じるヨハン・ヘルデンベルグの戯曲であり、劇中のブルー・グラスは出演者の実際の演奏である。監督はフェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン、女優のヴェルル・バーテンスなど、魅力的な人材であるが、日本ではベルギー作品は馴染みが薄く、未知の存在だ。しかし、本作はベルギーのアート系館で異例の大ヒットで、30人に1人のベルギー人が見ており、その人気の程が知れる。

 



(文中敬称略)

《了》


3月22日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開中

映像新聞2014年3月31日掲載号より転載





中川洋吉・映画評論家