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「ローマの教室で〜我らの佳き日々〜」
テーマの扱い方に独自性
3人の教師の人間的成長描く

 教育について、今までとは異なるアプローチで迫るイタリア映画「ローマの教室で〜我らの佳き日々〜」(以下「ローマの教室」)が現在公開中である。作品では教育の重要性以外に、人間の成長について触れ、この点が興味深い。

学校のとらえ方

3人の教師
(c)COPYRIGHT 2011 BiancaFilm

  本作では、学校と言う場を先生と生徒というくくり方ではなく、学校全体を一集合体とする、断片的な群像劇の形をとり、従来の作品群とは異なる視点が見られる。教育モノとしてはロラン・カンテ監督の「パリ20区 ぼくらの教室」(08年、カンヌ映画祭パルムドール)、ニコラ・フィリベール監督の「ぼくの好きな先生」(02)(「バベルの学校」、今年度フランス映画祭東京上映作品)などの秀作があるが、テーマの扱い方に「ローマの教室」の独自性がある。


脚本構成

ロベルト・エルリツカ
(c)COPYRIGHT 2011 BiancaFilm

 内容的に見れば、人物設定に工夫を凝らしている。断片的な群像劇そのままの、3人の教師を物語の中心に置き、彼らの、生徒や社会との関わりにより、彼ら自身が人間的に変わる過程に焦点が当てられている。その考察は鋭いが、同時に人間的風合いもあり、イタリア映画の持つ人間臭さが、時に見る者が身につまされる思いをする深さがある。この人間観察眼は一見に値する。


人物設定に工夫を凝らす

マルゲリータ・ブイ
(c)COPYRIGHT 2011 BiancaFilm

 主要な登場人物は3人。ローマの公立高校の女性校長ジュリアーナ(マルゲリータ・ブイ『はじまりは5つ星ホテルから』〈13〉)、新任の使命感に燃える国語補助教員ジョヴァンニ(リッカルド・スカマルチョ『ローマでアモーレ』〈12〉)、そして、教育に対する情熱が失せた美術史の老教師フィオリート(ロベルト・エルリツカ『グレート・ビューティ/追憶のローマ』〈13〉)と好配役。校長ジュリアーナは「教師は学校内の教育だけすればいい」を信条とする。この彼女が学校外での教育に向き合わざるを得なくなるのは、最初からお見通しの設定だが、その変わり方が作品の重要な見処(みどころ)となる。「生徒にやる気を起こさせる」と意気込む熱血漢ジョヴァンニはいささか気負い過ぎだが、最終的には良い意味で妥協し、人間的幅を広げる。美術史の老教師フィオリートは、教育への情熱が冷め「生徒は馬鹿」と無気力な皮肉屋となり、周囲から浮いた存在となる。このように3人を日本の教育に当てはめれば、ジュリアーナは管理教育の旗振り、ジョヴァンニは「俺についてこい」的な頭の悪い熱血教師、皮肉屋のフィオリートはひたすら定年を待ち、総てに無気力な、居ても、居なくてもよい存在といえる。

トイレットペーパーの備え

 冒頭、女性校長自身が自前で買ったと思われるトイレットペーパーを、学内のトイレに備えるシーンには驚かされる。このような雑用を校長がこなすことなど我が国では考えられないことだ。文化の違いなのであろうか。ここに教育の場の内、外と分けて考える彼女の信条がある。「教師は教育に専念し、校長はその他の仕事を行う」ということであろう。

3人の描き方

 「ローマの教室」の物語では、春から夏にかけての第2学期と、短い期間に限って展開される。この期間の短さが、作品に集中力をもたらせている。
その間の3人の教師と他との関わり合いが描かれる訳であるが、ジョヴァンニのケースでは、生徒の個に視点が定められ、そこが面白い。どこの学校にもいるお調子者、授業中でもイヤホーンを外さない女子生徒、ルーマニアからの移民の息子で、勉強の出来る男子生徒などが居る中で、移民の父親の息子に賭ける様子は、良く理解できるが、物哀しさも感じさせる。
老教師は独身で、2週間に1度、家にコールガールを呼ぶのが唯一の楽しみと、全く、人生に悲観し切っているわけでもない。むしろ、若干、生臭いが、彼の人間的一面がさらけ出され可笑しみを感じさせる。
官僚的な校長は、生徒個人とは関わらぬ主義だが、ある時、体育館で寝袋にくるまっていた男子学生を見つける。彼は母子家庭で、母親は行方不明。更に、呼吸器疾患持ちである。仕方なく、校長は自身の原則を曲げ、彼を入院させ、翌日には病院にパジャマを届けたりする。自らに課した不干渉主義がいとも簡単に崩れ去る様は、一寸おかしく、胸に響く心地良さがある。例えて言うなら、戦前の日本映画の傑作、山中貞雄監督の「百万両の壺」(35)でも見られる秀逸なシーンである。子供嫌いの丹下左膳だが、それは口先の強がりで、翌日は子供の手を引き歩く場面だ。この一点から見ても、人間は変わり得ることを示している。案外、人間は自分自身に枠をはめ、生き難くしているのではなかろうか。

老教師のときめき

 皮肉屋で、人生に対し、斜に構える癖がついた老教師も、自己変革を果すのである。このエピソードには自己蘇生以外に、イタリアの教育の一面である古典教養重視の学習が特に興味深い。彼を蘇生させるのが、かつての教え子である。彼は、若い女性との出会いで、生きる情熱がかきたてられる。卒業し、今は臨床検査技師の彼女が「先生の古典の授業に遅れたのは返す返す残念」と後悔し、後日、彼の教室にやってきた彼女は古典主義とロマン主義の講義に耳を傾けるのであった。そこには無気力な老教師ではなく、代わりに、かつての情熱に燃える教師の姿があった。

古典教育

 「ローマの教室」では、学校での古典教育について触れられている。生徒が古典主義やロマン主義作品をそらんじているのだ。筆者も、イタリアではなくフランスで、小学校から生徒がモリエールや古典文学を暗唱させられていることを知り驚いたことがあった。古典が文化的教養の下支えとなっているのだ。例えば、フランスのド・ゴール、ミッテラン大統領の演説には文学的引用が散りばめられ、格調の高さが見受けられる。本作からは、古典から何かを学ぶ姿勢がくっきりと浮かび上がる。

 

3本の柱

 従来、教育を扱う作品の多くは、子供の個の発見がメインテーマであった。作劇的には外せない手法である。しかし、本作は、3人の教師を3本の柱とし、生徒を柱の周辺に位置どらせている。生徒中心の枠を外したところに本作の特徴がある。教育の現場を映し出しながら、人間は変わり得る可能性について述べ、大きな感動をもたらせている。

 

赤と青

 原題タイトルは赤青鉛筆の意である。以前は日本でも、採点やアンダーラインに使われたが、我が国では、昨今はサインペンに取って代られた。赤は落第、青はギリギリセーフであり、教育現場の暗喩でもある。
監督のジョゼッペ・ピッチョーニは「ぼくの瞳の光」(01)で知られる実力派の中堅である。演出は平明で力強く、脚本も手掛けており、その練り込みは相当なものだ。
イタリア映画の大きな魅力の一つは、粒揃いの俳優陣の芝居である。一例として、皮肉屋の老教師を演じるロベルト・エルリツカの存在自体に、人生そのものが塗り込められ、つくづくうまい役者と感心させられる。
イタリア映画の良さを堪能できる一作だ。

 





(文中敬称略)

《了》


8月23日(土)から神保町・岩波ホールにて公開中

映像新聞2014年9月1日掲載号より転載




中川洋吉・映画評論家