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「わたしの名前は…」
アニエス・ベーの初監督作品が公開
少女と運転手の偶然の旅

 アニエス・ベーは、フランスの著名なファッションスタイリストで、映画に関心が深いことでも知られ、彼女の監督第1回作品『わたしの名前は…』(2013製作)が日本で公開の運びとなった。映画衣装は当然とし、他に、映画プロダクションの設立、プロデューサーとしての活躍、そして、映画祭の後援など、本業のファッション以外に、映画分野でも彼女の名は有名である。本作では、本名のアニエス・トゥルブレを名乗っている。

起伏少ない展開で描く手法

セリーヌ
(C)Love streams agnes b. Productions

 『わたしの名前は…』は、ファッションの世界を描かず、ごく地味な1人の少女の、ある時期の行動にスポットを当て、そこから家族、少女が成長する過程、そして、登場人物たちと社会との関わりを見つめている。練りに練り上げられた物語性を押し出したり、強いドラマ性を狙ったりしない、起伏の少ない話の展開が手法として採られている。
派手さを極力排し、地味な生活感と日常性を第一とし、物語は進行する。ここに作り手、アニエス・トゥルブレ監督の意図がある。派手な話運びと一線を画す意味で、世間的に知られるアニエス・ベーを脇に押しやり、本名を使ったとも考えられる。そこには彼女の作品に対する思い入れが感じられる。


主人公一家

セリーヌ
(C)Love streams agnes b. Productions

 登場人物は主人公、12歳の少女セリーヌ(ルー=レリア・デュメールリアック)。彼女は撮影現場近くに住む素人の子役である。他に父親(ジャック・ボナフェ、ゴダール監督の『カルメンという名の女』[1983年]など)、母親(シルヴィー・テステュー、オリヴィエ・ダアン監督の『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』[2007年])と、実力派の中堅俳優を起用し、ここでもスター性を排除している。


社会の敵、小児性愛

ドライバーとセリーヌ
(C)Love streams agnes b. Productions

 本紙10月5日号で紹介したアトム・エゴヤン監督『白い沈黙』で触れた小児性愛が、本作『わたしの名前は…』でも重要な役割を担っている。欧州では、小児性愛は『白い沈黙』で見られる通り、忌み嫌われ、幼児を持つ親たちの憤激の的となり、重大な犯罪として社会の敵とみなされている。
代表的な事例として、欧米における聖職者によるこの性的虐待について、日本でも目にする機会は少なくない。この種の犯罪は、親にとって大きな問題であり、フランスではこれらの問題を避けるために、両親が小学生を送り迎えすることが常態化している。



セリーヌの場合

ドライバーとセリーヌ
(C)Love streams agnes b. Productions

 主人公セリーヌは、極々普通の少女。異常なのは父親である。自分の娘を性愛対象とする"トンデモ親父"だ。小学校の自然教室で数日の旅行へ出る際、彼女は父親に弟や妹に手を出さないでと頼む。これが幼い少女の出来る唯一の抗議である。
父親の異常行為から解放された彼女は、海岸で伸び伸びと遊ぶが、何か、他の子供たちと馴染めず、1人で周辺を歩き始める。そして、駐車中の無人のトラックに勝手に乗り込む。
しばらくすると中年の運転手が戻る。彼は英語と片言のフランス語、少女はフランス語でコミュニケーションを試みるが、殆んど意志の疎通はない。少女を相手にしても時間の無駄とばかり発車、逃避願望の少女も何も言わず、彼と行動を共にする。
男性は中年の小太りで、髪の薄い風采の上がらぬタイプ。この彼の容姿に安心したのか、少女も恐怖心を持たず、彼と行先のわからない旅に同行する、12歳の色気からほど遠い、さしてかわいくもない少女との珍道中が始まる。


意志の疎通のない旅

セリーヌ
(C)Love streams agnes b. Productions
 父親の元を離れた少女は、この偶然の旅を楽しみ始める。運転手は時々、片言のフランス語を操るが、さして彼女に執着したり嫌がったりする様子もなく、淡々としている。互いに、変なオジさん、変なコと思いながらも、徐々に信頼感情が芽生える。
空腹の少女を思い、男性はカフェに連れたり、何も着替えを持たぬ招かざる同行者に衣服を買い与えたりする。
男性は無口で、不器用なタイプ。自ら求めて意志の疎通を図る気転もない無骨者だが、だんだんと少女に親近感を覚え、父親のような愛情を感じ始める。見てくれはパッとしないが、絵に描いたような好人物なのだ。この運転手の彼と少女を虐待する父親との対比が面白い。





旅の終わり

セリーヌの両親
(C)Love streams agnes b. Productions

 娘の突然の失踪に驚いた両親は警察へ捜索願を届ける。すわ、事件とばかりに、警察は中年男と少女の足取りを追い始める。
警察に追われていることなど、露ほども知らない2人は、大西洋沿岸を走り、英国へと向かう。
今や2人は親子のように振舞い、トラックの運転手は寡黙ながら、愛情のこもった眼差しで、素性のわからぬ少女と接する。彼の人間性、優しさが溢れる心温まる一コマである。
しかし、最後の時は来る。男性は警察へ連行され、少女は親許へ戻る。セリーヌを性的虐待した父親は「もう2度としない」と謝るが、何を今さらの感があり、しらじらしい。
幼い彼女は、警察の事情聴取で、父親の卑劣な行為については固く口を閉ざす。幼い少女自身のプライドか、家族の崩壊かについては作品自体、意図的に触れない。トゥルブレ監督は事件の推移よりも、1人の少女の生き方により心を動かされた結果と考えられる。


心痛い結末

 本作を語る上で、敢えて結末について触れる。
スコットランド人の男性は、誘拐と小児性愛のかどで拘置され、取り調べを受けるが黙秘を通す。更に悪いことに、少女の妊娠が判明、彼に疑いがかかる。しかし、彼は黙秘したまま、人生を諦めたように、一言も自己弁護をしない。彼自身、事故で家族を失い、失意のどん底の折、セリーヌと巡り合い、失した子供として彼女に接したのだ。
この物語の元ネタは、トゥルブレ監督が、取り調べ中に自殺をした容疑者の記事を目にしたのが発端である。トラック運転手は、もはや失うものがなく、少女は親切な彼を弁護する訳でなく、元通り、将来のために家族の形態を取り戻すことを決める。
2人の考え方、それぞれ一理あり、理解できる。トゥルブレ監督が、一寸した少女の逃避行を通し、人生の皮肉な逆転を見せる。ここに、派手なファッションの世界とは正反対の、少女のある一時期の心の内の葛藤を採り上げたのだ。



余談

 母親役のテステューは、フランス映画のアラン・コルノー監督に『驚きと戦き[おののき]』(03年)という傑作に起用されている。原作はベルギー人の女流作家の小説で、彼女の滞日体験の映画化である。テーマは、バブル当時のおごりたかぶる日本の会社人間に対する痛烈な皮肉である。
同作品は、03年に「フランス映画祭横浜」で上映されたが、内容の強烈さ故に、日本の配給会社はどこも買わず、日本公開されなかった、いわく付き作品だ。







(文中敬称略)

《了》


2015年10月31日(土)、渋谷アップリンク、角川シネマ有楽町ほか、全国順次公開

映像新聞2015年10月26日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家