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『アイヒマン作品』相次ぎ公開
ユダヤ人大虐殺の実行犯裁判を題材に
独ナチス犯罪の事実に迫る

 アウシュヴィッツのホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺)実行犯、アドルフ・アイヒマン裁判(1962年処刑)を巡る2本の作品が続けて公開される。1本目は、1月7日から公開された『アイヒマンを追え!ナチスが最も畏れた男』(2015年/ドイツ、ラース・クラウメ監督)で、もう1本は2月公開の『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』(15年/米、マイケル・アルメレイダ監督/以下『アイヒマンの後継者』)である。

 第二次世界大戦終戦後、70年の年月を経た現在、ナチス、アイヒマンを扱う作品が徐々に公開され、その数は10指では足りない。70年前のナチスの犯罪を白日の下にさらすのは、いささか遅すぎる感もあるが、事実関係の確認、ナチス問題に心情的に触れることを回避しようとするドイツの国民性などが相まって、現在に至る。
誰しも負の遺産には触れたくない。ドイツ国民がナチスを押し出した側面を考えれば、この心情は理解できる。また、ナチス戦犯の老齢化による、戦犯逮捕のタイムリミットも近い事情も当然考えられる。



ハンナ・アーレントの主張

 『アイヒマンの後継者』は論理性が強く、アイヒマン裁判傍聴記を書いたドイツ生まれの米国人の哲学者、ハンナ・アーレントの考察が下敷となっている。ナチスの弾圧を逃れ米国へ亡命する彼女は、裁判を通してアイヒマンを「凡庸な悪」と定義する。彼女の説に対し、実害を受けたユダヤ人からは非難の嵐で、世論を二分する議論となった。


「凡庸な悪」とは

妻で助手のサッシャ
(C)2014 Experimenter Productions, LLC. All rights reserved.

 このアーレント説を論理的に支えるのが本作『アイヒマンの後継者』である。「凡庸な悪」とは、巨大な権力を握る指導者だけの悪ではないところが、アーレント説の神髄である。人は誰しも悪に成りうるとする考え方で、この説に共鳴する米国人監督マイケル・アルメイダが映画化を手掛ける。悲惨な事実関係で押す、従来のナチスものとは全くタイプの異なる作風を特徴としている。アーレント理論を映像的に立証する作品だけに、血わき肉躍る内容ではなく、娯楽性を排して論理性を強く押し出している。



「凡庸な悪」の実験

ミルグラム博士夫妻
(C)2014 Experimenter Productions, LLC. All rights reserved.

 哲学者の理論を映像的に立証
冒頭のシーンの実験が面白い。いきなり本論に入るような構成である。この実験をするのが、スタンレー・ミルグラム博士(1933−84年)で、彼はハーバード大学で学位を得、イェール大学助教授として61年から『アイヒマン実験』に取り掛かる。本作は、彼の学問的足跡を追うものであり、娯楽性はなく「凡庸な悪」事態をテーマとしている。



実験

ミルグラム博士
(C)2014 Experimenter Productions, LLC. All rights reserved.

 実験自体がかなり変わっている。部屋には2人の被験者がおり、先生役と学生役を振り当てられる。その奥の窓からミルグラム博士が2人の反応の詳細を観察する。先生役が出題し学生役が答える普通の問答を繰り返すが、すごいことにこれが罰ゲームになっている。
先生役は、学生役が誤答すると電流を流す。誤答が重なれば、電圧を上げる。先生役は慌てて止めようとするが、ミルグラム博士は「行くところまでは行け」とばかり、中止の懇願に取り合わない。
このいささか強引な実験方法が後に物議をかもすが、電流は致死量に届かぬように、事前に調整されている。学生役は電流のボリュームアップに恐怖を覚えるが、実験についてくる。ここがアイヒマン実験のミソである。



実験の目的

街中のサッシャ
(C)2014 Experimenter Productions, LLC. All rights reserved.

 一見、強引と思われるこの実験の目的は、ナチスによるホロコーストがどのように起きたか、普通の人々が権威にどこまで服従するかを、科学的に立証するものである。
実験が進むと、学生役の誤答が増え、電圧も上がる。これが実験の基本コンセプトで、電圧が上がり、身体的苦痛に見舞われ、中止を頼むが聞き入れられない。
実験終了後、ミルグラム博士が被験者に問いかける。まず、被験者に「なぜ、電流を止めなかったのか」と。1人は「俺は途中で流すのを止めたかったが、続けろと言われたから」、もう1人は「自分は抵抗し、自らの意志ではしていない」と訴える。2人の被験者には、最終的に「自らの意志で苦境からの脱出を回避し、先方の意思に従っただけ」と語るようになる。
これは、まさに「服従の論理」であり、アイヒマンの「上官の命令がなければ何もしなかった」との裁判での発言と合致する。それは集団における同調圧力であり、権力の押し付けであり、ひいては保身となり、彼らなりの正義と大義へと変容することである。
この実験の結果により、アーレントの理論の正当性が立証される。


「服従の論理」

街中の同調行動
(C)2014 Experimenter Productions, LLC. All rights reserved.

 ハンナ・アーレントの「凡庸なる悪」を心理的実験によって、その正しさを立証するミルグラム博士は、研究があまりに先駆的であった。それ故に、学界、関係者から多大な反発を受ける。
それには理由がある。彼の「服従の論理」とは、単にアイヒマンだけの問題ではない点だ。プレス資料で映画監督森達也がいみじくも指摘するように、「アイヒマンはわれわれの姿」の発言は、正鵠(せいこく)を射ている。人間は群れで生き、同調圧力の中で心の安定を見出す生き物であることを知れば、説明がつく。
ミルグラム博士は、その先駆的研究で学界の異端児となる。そのため、ハーバード大学では助教授止まり。このことは作品では直接触れぬが、十分推測できる。



アイヒマンの身柄争奪戦

バウアー検事長
(C)2015 zero one film / TERZ Film

 アルゼンチンに潜伏するアイヒマンを逮捕し、ドイツの法廷に引きずり出す物語『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』は、既公開作品ではあるが、『アイヒマン』ものの1本として取り上げる。
アイヒマン捜索にはイスラエルの『サイモン・ヴィーセン・センター』や、モサド(イスラエル諜報機関)が活躍する。それ以外に、アイヒマン探しで血眼になるのがドイツにおける影のヒーロー、フリッツ・バウアー検事長である。この彼のアイヒマン生け捕り作戦を描くのが『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』である。

バウアー検事長と部下の検事
(C)2015 zero one film / TERZ Film

舞台は、1950年代のドイツ・フランクフルト、主人公バウアー(ブルクハルト・クラウスナー)は、ヘッセン州の検事長。彼はナチスによる戦争犯罪の告発に執念を燃やす。だが、当時のドイツには多数の元ナチス党員が政官の中枢に潜り込み、加えてナチスの古傷に触れることを避けるドイツ国民の風潮によって、追及ははかばかしくない。
1949年に発足したアデナウアー政権も、当初はナチス狩りに消極的であり、バウアー検事長は孤軍奮闘の闘いを強いられる。彼は執念深く、南米アルゼンチンに偽名で潜伏するアイヒマンの存在を割り出すが、政権は動かず、やむなくイスラエルの諜報機関と組み、協力関係を築き、極秘資料を渡す。

イスラエル・モサドと検事長
(C)2015 zero one film / TERZ Film

その後の展開がバウアー検事長にとり痛恨の一撃となる。アイヒマンの身柄を確保し、自国(ドイツ)で裁判に掛けるつもりのバウアー検事長は、協力者モサドの手痛い裏切りにあう。ドイツ当局を出し抜き、モサドがアイヒマンを拉致し、イスラエルの裁判に掛けてしまう。
この間の事情は、作品内では、米国の諜報機関(多分CIA)とドイツ政府との間で、何らかの話し合いがあったことが匂わされるが、詳細は判然としない。ドイツにとり不可解な結末であるが、何らかの取引があると確信させる、国際政治の駆け引きの一端であることは間違いない。
このような重大事実が公になるのに70年の年月を要することは、ナチスの戦争犯罪告発の難しさを表している。



(文中敬称略)

《了》

2月25日から新宿シネマカリテほか全国順次公開

映像新聞2017年2月27日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家