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『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』
TBSテレビ製作のドキュメンタリー
米軍統治下での沖縄で活躍

 沖縄の反基地闘争の先駆けたる人物、瀬長亀次郎(1907−1990年)の半生を物語るドキュメンタリー『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(以下『カメジロー』/佐古忠彦監督、TBSテレビ製作)は、ここ最近で最も熱い邦画である。反基地闘争と、彼の熱き行動の軌跡は圧巻である。
カメジローの名が一躍響き渡ったのは1956年、米軍統治下の沖縄において、沖縄市長選で当選の衝撃的ニュースである。敗戦から27年、本土はいまだ戦後復興が進行中の時代で、沖縄どころではなく、「忘れられた島」的存在であった。



瀬長亀次郎とは

演説会
(C)TBSテレビ

 民衆の支持で闘い続けた政治家
瀬長亀次郎は1907年(明治40年)沖縄生まれ。旧制高校七高(現、鹿児島大学)に学ぶ。彼は社会主義運動に加わるが、共産党自体が反国家的団体とする、当時の悪名高い治安維持法により、放校処分となる。いわゆるアカ狩りである。その後、労働争議を指導し、懲役3年の刑を受ける。
彼の経歴が面白い。出獄後、沖縄朝日新聞の記者となるが、兵役召集により中支へ。40年に復員し、毎日新聞那覇市局記者として活動、46年に「うるま新報」(現、琉球新報)社長に就任。反基地闘争の指導というより、むしろジャーナリストのキャリアを積む。
そして、47年に沖縄人民党の結成に参加し、本格的な政治活動に専念。沖縄人民党とは、米国占領下における左翼政党で、日本共産党の沖縄県委員会の前身である。しかし、同党は本土復帰の翌年73年に解散し、日本共産党と合流する。
このほかに、沖縄の地域政党として、沖縄社会大衆党が存在する。政治路線は地域主義、反日米安保、革新・中道左派。50年に結成、現在も存続している。


カメジローの名

宣誓拒否(最後列)
(C)TBSテレビ


 瀬長亀次郎の知名度は、沖縄では伝説化している。なぜ、現在まで忘れられていないのか。その理由は、米国占領下の沖縄で、正面から米国に立ち向ったことにある。
彼の人気は、カメジローという名の語呂の良さ、そして庶民性が大いに貢献している。彼は演説がうまく、数万人の沖縄人を動員するほどである。時に、15万人動員のエピソードもある。
演説のうまさに加え、おそらく彼の持つ熱っぽさに、聴く側がしびれる一面も考えられる。実際、諜報戦略に長ける米国も同様の分析をしている。彼の徹底した反米の信念、沖縄の人々の気持ちの代弁をしている。今の世の中、万単位で聴衆を動員する政治家がいるだろうか。



宣誓拒否と不起立

出獄の際の歓迎
(C)TBSテレビ

 作品は時系列で「カメジロー」を追うが、数々の痛快なエピソードが盛り込まれ、そのいくつかを紹介する。
本土復帰前の沖縄には、地域の議会として立法院が存在する。1952年の第1回立法院議員選挙では、最高得票数で当選を果たす。そして琉球立法政府創立式典で、宣誓を拒否し、全員の起立のなか、1人だけ座ったままの人物がカメジローである。
同調圧力の中、たった1人の拒否。いかにも彼らしく、この時の写真が作中でも映し出される。この時から、彼は米軍の要注意人物となる。



沖縄人民党事件

船頭での歓迎
(C)TBSテレビ

 1954年、カメジローは、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕される。実に強引な米国の行政であり、日本国土から日本人を追い出す命令ともいえる。
収監された刑務所で待遇改善を求める受刑者の暴動に困り果てた刑務所側は、暴動を治めるために、米軍や日本警察ではなく、カメジローに仲介を依頼する。この時、彼は独房で『レ・ミゼラブル』の読書中であった。
彼が仲介に乗り出し、受刑者の要求の7割が通ったとされる。彼は、刑務所内でも、一目も二目も置かれた存在であったのだろう。



出獄光景

演説会
(C)TBSテレビ

 不服従の意志を天下に知らしめる、彼の立法院宣誓拒否の1枚のモノクロ写真から、決意や思いが伝わる。この写真は彼を語る上で欠かせない。報道のTBSと言われるだけあり、歴史的な写真をきちんと保存するあたり、さすがと言わざるを得ない。
さらに、もう1枚貴重な写真がある。彼が前述の沖縄人民党事件で引っ掛けられ、懲役2年の刑を受け収監される。その時の暴動の仲介は前述とおりであるが、出獄に際し、歴史的写真が残っている。刑務所を出る際、彼を取り囲む警官たちの表情から「カメジローさん、お勤めご苦労でした」の、同胞に対する親近感と敬意がはっきりと感じられる。
まさに沖縄の英雄扱いで、いかに多くの人に尊敬され、愛されたかがよく理解できる。


佐藤栄作首相との渡り合い

国会
(C)TBSテレビ

 沖縄人民党が日本共産党と合流し、彼は衆議院議員へと転身し、何と7期の長きにわたり国会議事堂で活躍する。『カメジロー』の作中、時の佐藤栄作首相と委員会で渡り合い一歩も引かず、まさに全沖縄代表であった。
権力主義者の評判をとり、核持ち込み、密約込みの本土復帰は、沖縄島民として到底許せるものではない。カメジローと佐藤栄作が丁々発止とやり合う、モノクロのムービーが挿入される。舌ぼう鋭く切り込み、佐藤栄作も丁寧に答える場面は、現在政治とは全く異なっている。
しかし、首相の上から目線は、昨年起きた、辺野古基地闘争での大阪機動隊隊員による工事反対派への「土人」発言問題に通ずるものがある。



殺し文句

刑務所に接する実家
(C)TBSテレビ

 数万人単位で聴衆を動員するカメジローには、お得意の殺し文句がある。
「この瀬長1人が叫んだら50b先まで聞こえます。この場の皆さんが声をそろえて声を上げれば、全那覇市民全体の耳へ届きます。沖縄70万人(当時)の市民が声をそろえれば、海を越えてワシントン政府を動かすことができます」
胃の腑(ふ)にストンと落ちる殺し文句である。沖縄の人々の気持ちをカメジローが代表して声を上げているのだ。そして、人々は「カメさんの背に乗り、祖国の岸へ渡ろう」と応じる。劇画を思わす展開だが、これが本音の積み重ねである。


生き残るカメジロー

晩年のカメジロー
(C)TBSテレビ

 カメジローは、米軍を敵に回しつつ、1956年に那覇市長に当選する。慌てた米軍は給水停止、補助金や融資のカットなどの嫌がらせで、瀬長市政は11カ月の短命で終わる。
戦後、本土でも米国の関与が取り沙汰される、下山事件、松川事件があり、「カメジロー暗殺」があってもおかしくなかった。例えば不審な交通事故死など、米軍がその気になればやれたはずだ。カメジローが天寿を全うできたのは、彼の島民あげての支持があったからだろう。
ぶれない彼の行動は、母のひと言から来ている。「ムシロのアヤのように真っすぐ生きよ」である。


不屈の闘士

 初期の米国占領下から始まる沖縄の反米・反基地闘争をカメジローというプリズムを通し描いたのが、ドキュメンタリー『カメジロー』である。沖縄の反戦運動を伝える本作、数々の事実を見る側に突き付けている。
もう1つ、本作の重要な視点は、カメジロー自身の熱さである。この作品から、彼のように熱く生きる人生の教訓を教えられる人々は必ずいる。
カメジローの熱き人柄と、反基地闘争、両面を視野に入れて見るならば、せっかくの人生、彼のように熱く生きてみたいと思わす作品だ。




(文中敬称略)

《了》

8月12日から沖縄先行公開、8月26日からユーロスペース(東京・渋谷)ほか全国順次公開

映像新聞2017年8月28日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家