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『三里塚のイカロス』
昭和史を俯瞰する貴重な時代の記録
成田空港の建設反対者が証言

 日本の敗戦(1945年)後の現代史に残る、対権力との闘いに「60年安保闘争」と「三里塚闘争」がある。これらは、公権力の横暴に立ち向かう人々の闘いであった。ドキュメンタリー『三里塚のイカロス』(2017年、代島治彦監督)は闘う人々の記録であり、昭和史を俯瞰(ふかん)する貴重な時代の証言だ。

 
作品の冒頭、ある農家が一軒、フィックス(カメラを固定して撮影)でとらえられる。三里塚闘争の痕跡を全くとどめない大きな家屋だが、三里塚農民闘争の起点と思(おぼ)しき、たたずまいだ。
そこで1人の老農民運動家が登場。黒バック、アップで語る彼の意見には、当時の農民と援農の学生や、新左翼の若者との信頼関係が語られる。これが作品『三里塚のイカロス』の最も重い部分である。
「一番びっくりしたのはね、命懸けでわれわれのために闘ってくれる人が初めて現われた、すなわち、血を流してまでもね、農民を助けてくれた人っていないわけですよ、歴史の中に。そういう意味では、えらい待遇をしましたよ」



作品の構成

現在の成田空港
(C)2017 三里塚のイカロス製作委員会

 作品は137分の長編ドキュメンタリーであり、1人ひとりの活動家、農民、用地買収の公団職員、農家に嫁いだ高学歴の援農女性たちに焦点を絞り、進行する。
一言で言えば、非力な闘争農民と援農の人々が公権力にたて突き、闘争自体は新左翼の敗北とされている。しかし、彼らは本当に負けたのであろうか。その疑問を『三里塚のイカロス』は、暗に衝(つ)いている。


成田の現在

援農女子大生
(C)2017 三里塚のイカロス製作委員会


 今日、欧州へ行く人は、ほとんどが都心に近い羽田空港から出発し、成田出発は少ない。成田は第2空港化しており、東京からの利便性は圧倒的に羽田空港が勝っている。
読者の中に、現実に空港ではなく、農村成田へ行った方がおられれば、すぐに理解してもらえるだろう。農村成田は豊かな農業地帯であり、また、落花生の名産地としても有名だ。その豊かな農業地帯の上に、飛行機が爆音を立て離発着する様子には驚かされる。
この作品では、インタビューの間中、一時飛行機をやり過ごしてから再開するということが頻繁に起きている。この爆音、実際に農村地帯で耳にしたが、その凄まじさは恐怖だ。



歴史的経緯(いきさつ)

反対同盟の鉄塔
(C)2017 三里塚のイカロス製作委員会

 三里塚闘争は、まず、巨大空港建設地の選定を巡る政府、自民党内の意見の食い違いがあり、成田に近い、冨里が有力視されていた。だが、冨里推進の河野一郎(現河野太郎外相の祖父)の急逝をきっかけに成田に決まる。
1966年に時の佐藤(栄作)内閣は三里塚を閣議決定する。三里塚闘争が長引いた最大の理由は、空港予定地の決定に際し、政府と官僚だけで進め、地元民の意見を無視したことで、空港建設最大のボタンの掛け違いとなる。何も知らされていない三里塚の農民は、すぐに反対同盟を結成。この66年が一応、三里塚闘争の始まりの年とされている。
この理不尽な政府の決定に革新サイドは、ただちに反応。既成の社会党、共産党、60年安保のころから認知される新左翼が続々と成田入りし、農民運動に加わる。一方、体制側は権力の一番尖鋭な部分、警察機動隊を大量に投入する。
援農組の新左翼は各派入り乱れての連合体であり、最終的に中核派が実権を握る。彼らが援農の主流となり、他の各派、特に既成の左派政党は早々と闘争から離れる。このことを中核派は、次々と離れる他の新左翼に対し、「闘争をさぼった」と揶揄(やゆ)している。



援農OB

現在の秋葉恵美子
(C)2017 三里塚のイカロス製作委員会

 農民運動に積極的に加わる援農を含め、『三里塚のイカロス』では、敗北する農民+援農の側から闘争を描く立場をとっている。農民運動に飛び込む若い学生たちは、「気持ちは志願兵」と語るように、すべてを闘争に捧げた人々が多く、中年になっても結婚もせず、活動の表舞台にとどまる人々も少なくない。彼らの「世の中は良くなるべき」とする信念は尊重に値する。



女子援農組

中核派指導者、岸宏一
(C)2017 三里塚のイカロス製作委員会

 作品の最初に取り上げられるのは、秋葉恵美子である。お茶の水女子大学の学生だった彼女は、新左翼の一派に属し、支援のため三里塚入りし、大学を中退、後に農家に嫁いだ。
当時としては大変珍しいことで、「長続きはしないだろう」と、福祉と左翼たたきで鳴らす「週刊新潮」に書かれた。それに対し「マスコミはいい加減」と、彼女は今でも不快感を口にする。
そして、農民同盟に加わり、空港反対闘争を続け、現在も農家の主婦として成田に住みつき、外見からはとても反対闘争を戦い抜いた人とは見えない。彼女は「私は私だから見ててよ」とめげる様子もない。
ほかに、大学を中退し、農家の嫁として、反対闘争に参加した女性たちも成田の地にとどまっている。


人物構成

現地訪問中の機動隊の職質
(C)2017 三里塚のイカロス製作委員会

 『三里塚のイカロス』は、闘争当事者へのインタビューで構成され、彼らは空港反対の農民同盟、中核派を中心とする新左翼、そして、援農から農家に嫁ぐ高学歴の女性たちである。
彼らを通し、権力と対決する農民同盟の側、あるいは内側からの発言を積み重ね、単なる反権力運動だけを描くにとどまらず、凝縮された人間の生き方が塗り込まれている。



反権力意識を支えに

志願兵として闘争に飛び込む中川憲一
(C)2017 三里塚のイカロス製作委員会

 公権力と農民たちの壮絶な闘い
援農の学生たちは、そのほとんどが大学を中退し、成田に住み、闘いの日々を送る。なぜ、若者たちが成田へ向かったのか、その一例として、大学進学を断念し闘いに飛び込んだ、京都洛陽高校出身の1人は、正義の味方と思っていた警官の暴力を直接見たことがきっかけで、これはおかしいと思い、成田入りしたという。
このように、組織暴力団化した警察機動隊への憎悪は、1960年の安保闘争以来、成田まで続き、正義感の強い若者が闘いに傾斜するのであった。


負け戦

 公権力は力づくで、1978年に部分的に開港する。その後の拡張工事により、農民同盟のひと握りの人々が、わずかな空港内の土地を死守する構図となり、負け覚悟の闘いは実質的に幕を降ろす。
しかし本当に、農民、新左翼は敗れたのであろうか。
現在、成田空港は明らかにサブ化している。66年に、ほぼ冨里に決定していた空港は、住民にも知らせず、一方的に成田に決定した経緯がある。それに対し立ち上がったのが、農民と援農の新左翼であり、公権力と農民たちの壮絶な闘いとなった。
66年の成田決定後、政府は市価を上回る値段で土地を買い上げ、90%の農民が応じている。残ったのは10%くらいの農民たちであり、徐々に条件闘争派が優位を占め、今では3ヘクタールを持つ地権者だけとなった。
彼らの闘争は、羽田中心となった現在、無理を重ねて作るほどの価値があったのか、多大な国家財政をつぎ込む、壮大な損失ではないだろうか。このことを『三里塚のイカロス』は、証言者の声として伝えている。
現代の日本を知る意味で、佐古忠彦監督の『米国(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(8月28日号で紹介/公開中)と本作『三里塚のイカロス』は、記憶にとどめる必要がある。



(文中敬称略)

《了》

9月9日からシアター・イメージフォーラムほかで全国順次ロードショー

映像新聞2017年9月4日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家