このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



『否定と肯定』
「ホロコースト」の真実をめぐる裁判劇
緻密な論理で論破する知的遊戯

 「ホロコースト」は存在しないと主張する歴史学者と、ナチスの犯罪とする大学教員の裁判劇『否定と肯定』(ミック・ジャクソン監督、英国)が上映中である。本作はち密な論理で相手方を論破する知的遊戯であり、論理と論理のぶつかり合いは見応え十分だ。

 
アウシュビッツ収容所の指揮官を裁く作品として、アイヒマン裁判傍聴記がある。それが『ハンナ・アーレント』(2012年、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督/独)であり、この作品も、彼の弁明を逐一突き崩す論理性で、見る者を引き付ける。
『否定と肯定』は裁判劇であり、他方は法廷傍聴記である。この裁判劇作品はドイツ作品であるが、同じ論理性の追求でもその手法が異なる。



裁判の構図

リップシュタット
(C)DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

 本作の主人公、デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)は、米ジョージア州アトランタ市エモリ−大学の歴史学者である、ユダヤ系米国人。彼女は、英国の歴史学者デイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)が訴える「ホロコースト否定論」を、自著『ホロコーストの真実』で反論する。それに対しアーヴィングは、学者として顔をつぶされたと感じ、彼女の授業に乗り込むのが端緒だ。そして彼は、彼女を名誉棄損で訴える。
1996年2月に訴訟が起こされ、2000年1月に裁判開始された。そして同年4月11日、4カ月に及ぶ裁判は結審する。この裁判、舞台が母国(米国)と思っていた彼女は面食らうことになる。


両論併記

アーヴィング
(C)DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016


 戦前、日本でも同様な事件があった。日本軍による南京大虐殺事件(1937年)である。問題となったのは「南京大虐殺は虚妄」とする、当時TBSテレビの社員であった鈴木明の著書『南京大虐殺のまぼろし』(1973年)である。これは日本兵の中国人百人斬りはなかったと主張し、「南京大虐殺」を否定する論拠となった。現在なら、保守団体「日本会議」をうれしがらせる類と言っても間違いない。
『否定と肯定』のプレスシートにおける木村草太(憲法学者)の論考を引用すれば、本作はメディアによる「両論併記」が大きな問題であることが示唆されている。
要するに、議論の賛否が1対9でも、両論併記なら五分五分となり得るということだ。「ホロコースト否定」も、この論法ならば市民権が与えられる可能性がある。木村草太の指摘は鋭い。



対岸の火事

リップシュタットと法廷弁護士ランプトン
(C)DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

 同裁判は2000年当時、欧米でセンセーショナルに報道され、裁判の行方が注目された。しかし、日本ではそれほど話題にならなかった。人道上、避けて通れないホロコースト問題であるが、日本人にとっては対岸の火事であったのだろう。





英国独特の裁判制度

弁護団
(C)DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

 英国司法制度での困難な闘い
米国人のリップシュタットは、名誉棄損の被告として訴えられるが、原告のアーヴィングは、英国における裁判を希望し、英国王立裁判所で開かれることとなる。
米国と英国、どちらの裁判所でもよいと考えられるが、これには大きな意味がある。英国司法制度では、訴えられる側に立証責任が負わされる。そのため、訴えられたリップシュタットが、原告アーヴィングの「ホロコースト否定論」を崩す必要があるのだ。

大弁護団の結成

法廷に入るアーヴィング
(C)DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

 リップシュタットにとり、英国司法制度には驚かされることばかりだが、彼女は有能な弁護人の編成を始める。法廷には立たないが、被告を保護し調査をつかさどる事務弁護士をアンソニー・ジュリアス(アンドリュー・スコット)に依頼する。彼は「ダイアナ妃離婚訴訟」で名を挙げた弁護士でもある。
そのジュリアスは、弁護団の指令塔的存在。法廷で丁々発止と渡り合う法廷弁護士、リチャード・ランプトン(トム・ウィルキンソン)と重量級の大物男優が扮(ふん)している。



弁護団の方針

法廷シーン
(C)DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

 えり抜きの弁護団、もちろん、リップシュタットがジュリアスに人選を依頼したもの。彼らは腕利きの法律家集団であり、彼女を満足させるのに十分な顔ぶれで、これで自身の思い描く方向で裁判を引っ張れるものと考えた。
しかし、ジュリアスから、驚くべき提案がなされ、天地が逆転するほどの驚きを味わう。1つ目は、裁判ではホロコースト生存者の証言はしないことを要請される。彼女としては、相手の論拠を崩す最強の手段を、生存者の証言と考えており、予想せぬことであった。
実際、裁判所に生存者の1人の中年婦人が彼女に証言することを直訴し、リップシュタットは証言させると約束まで交わしている。弁護士控室では、証言をさせない弁護団の方針に納得のいかない彼女は憤然とジュリアスに噛みつくが、彼は一歩も引かない。
弁護団の考えは、証言によって裁判自体が情緒的になり、本質論の展開に差し支えるためだ。むしろアーヴィングの膨大な日記を読み、アウシュビッツの現地調査をし、歴史の真実を確認する方法で、アーヴィングの論点の矛盾を突く作戦である。つまり、アーヴィングと同じ土俵に上がり、論戦することを回避したともいえる。
この明確な方針を弁護団の依頼主であるリップシュタットも認めざるを得なかった。まさに、弁論による闘いである。この決定の論議のシーンが『否定と肯定』のハイライトだ。



発言の封じ込み

 さらに弁護団は、リップシュタットの法廷での証言を認めないことも告げる。情緒の入り込む余地がない、徹底した論理性の追求である。
彼女は非常に不満ではあるが、自己の主張を引っ込めることにする。そこには、年長の法廷弁護士ランプトンの見事な法廷での弁論があり、彼女は自我を引っ込め、彼らに任すことを決意する。



真実

 アーヴィングは、アウシュビッツにガス室は存在しないと主張し、証人たちに、「扉のノブの位置は右か左か」と数十年前の記憶を糺(ただ)すが、当然、証人の発言はあいまいとなる。このように子細な質問で、ガス室は存在せず、従ってホロコーストはなかったとする論法だ。
それに対し弁護団は、「彼はヒトラーの擁護者であり、また人種差別主義者で反ユダヤ主義者であることが多くの資料から明らかであり、アーヴィングの主張は歴史の歪曲(わいきょく)である」と断じる。


教訓

 2000年から始まった裁判は4カ月後に結審するが、判決は被告側の勝訴となる。歴史を歪曲する修正主義の敗北である。しかし世界的な極右の台頭や、憲法9条改正へ向かう日本の政治状況を考えると、人類全体でその価値を分かち合わねばならぬ、この判決が変更される可能性はある。
これだけ論理のせめぎ合いだけで通す作品も珍しい。かなり難解だが、見るに値する。




(文中敬称略)

《了》

12月8日(金)からTOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー

映像新聞2017年12月11日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家