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『ルージュの手紙』
人生の機微を感じさせる実力派監督作品
一段と深める作品の持つ親近感

 フランスにおいて、現在世界的に一番知られている女優はカトリーヌ・ドヌーヴで、今年6月に「フランス映画祭2017」の団長として、自らの作品『ルージュの手紙』を携えて来日した。その作品が近々公開される。脚本が良く練られ、見ての心地良さがあり、人生を感じさせる。

 
本作『ルージュの手紙』の原題は「助産婦」で、フランス映画の香り、艶(つや)を感じさせるには弱い。邦題はフランス映画らしく、『ルージュの手紙』と改められた。正解だ。
監督は、『セラフィーヌの庭』(08年)や、『ヴィオレット・ある作家の肖像』(13年)で知られる、実力派のマルタン・プロヴォであり、彼の手になる脚本、演出の手際よさが光る。
彼の作品は、現代のフランスに生きる人々の息吹を感じさせる。いわゆるフランス流エスプリを描かせれば、クロード・ソテ監督(1924−2000年/代表作『夕なぎ』〈72年〉、『愛を弾く女』〈92年〉など)の域に迫る作風である。フランス映画の1つの流れ「良質の伝統」の継承者といえる。



W主役

ベアトリス
(C)photo Miehael Crotto

 フランスの2大女優が好演
主役はカトリーヌ・ドヌーヴ(主演作品は多岐にわたるが、あえて挙げれば、『シェルブールの雨傘』〈1963年〉、『終電車』〈80年〉、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』〈2000年〉)と、カトリーヌ・フロ(代表作『大統領の料理人』〈12年〉、『偉大なるマルグリット』〈16年〉)のW主役で、対照的な2人の人物造形が本作成功の因である。
派手好きで、宵越しの金を持たないドヌーヴ扮(ふん)するベアトリス、堅実で、奉仕の精神にあふれる助産婦クレールにはフロが扮する。若くない2人だが、ドヌーヴの美ぼうは衰えず、大輪のバラのような存在。一方、フロは決して美人ではないが、善意が表情に出る好感の持てる大女優。


発端

クレール
(C)photo Miehael Crotto


 病院で助産婦として夜勤で働くクレール。今日も、難産の子供を取り上げひと息つく、年長の彼女はリーダー格で、次々と指示を出し、仕事をさばく有能な助産婦。生まれた赤子を母親同様、愛情のこもるまなざしで眺める。本当に自分の仕事を愛し、命の引き出し役の自身の仕事に満足している様子が見て取れる。
明け方、自転車で自宅へ戻るが、彼女のアパートはパリ郊外の勤労者用のHLMと呼ばれる低賃金団地である。そこで、彼女は息子、医学生のシモンと暮らす、普通の慎ましやかな家庭である。



再会

ベアトリスとクレール
(C)photo Miehael Crotto

 このクレールに、早朝1本の電話が入る。そそくさとパリ行きの郊外電車に乗り、指定された場へ急ぐクレール。会うのは顔に見覚えがある、30年前に突然姿を消した父親の愛人ベアトリスで、気まずい再会。何を今更のクレールは「お互い何も話すことはないわね」と突き放すが、何が来ても恐くないベアトリスは、「何か飲む」とばかりに朝からウィスキーを勧める。
この場面が格別フランス的だ。フランスでは人をもてなす場合、「何か飲み物を」と勧めるのが普通だが、朝からウィスキーとは。クレールは度肝を抜かれる。
このウィスキーの後、ベアトリスは帰りたがるクレールを近所のカフェに連れ出す。ワイン通の常連の彼女に、店主は「このワインはどう」と1杯注ぐ。ここでまた、クレールは「何て人」とばかり仰天する。そしてベアトリスは朝食に、お好みのオムレツを注文する。2人の住む世界の違いが、この30年ぶりの出会いで、ひと目でわかる仕掛けだ。脚本が手慣れている。



気まずい再会

クレールの息子(中央)
(C)photo Miehael Crotto

 ベアトリスは「自分はガンで、もうすぐ死ぬ」と、クレールの関心を引き、何かと引きとめ、仕方なく付き合う。
貧乏をしていると言いながら、朝からワイン、そしてチェーンスモーカー、昼と夜はレストランで食事と、贅沢な毎日。一体、何者かとの疑問がクレールの頭をよぎる。何しろ父の昔の愛人が目の前に出現するわけで、できたら忘れたい思い出が息を吹き返す。この話の設定が『ルージュの手紙』の核で、ここから女性2人それぞれの、人生の来し方が語られる。
2人の関係は、最初はギクシャク、そして最後は母娘のように締めくくられる。ひと言で言うなら、話の発想がしゃれている。


ベアトリスの正体

ポールのトラック内
(C)photo Miehael Crotto

 ベアトリスの生業ははっきりせず、彼女の正体が徐々に露(あら)わになる。その過程が興味を引きつける。
彼女は女ギャンブラーで、彼女の代理でクレールが借金の返済のため賭博の元締めのところへ訪れ、そこで正体が明かされる。その元締めの老女が、かの青春スター、ミレーヌ・ドモンジョ(代表作『お嬢さん、お手やわらかに』〈1959年〉)で、懐かしくもあり、驚きでもある。


クレールの毎日

ベアトリスとクレール
(C)photo Miehael Crotto

 奔放に生きるベアトリスの生き方と正反対が、クレールの場合である。仕事人間の彼女、赤子を無事に取り上げることを喜びとし、天職と自身は確信している。
同僚との人間関係も良く、職場でも見事な指導力を見せ、助産婦グループを上手にまとめている。特に手術室の出産場面では、仕事上、不可欠な縦の指示系統がキチンと極り、サポート陣は的確に応える。
この出産場面は、プロヴォ監督が特に力を入れたところで、ここでクレール自身の職業意識の高さがとらえられている。
彼女は健康第一主義で、そのためアルコールはたしなまず、菜食主義で肉は口にしない。朝からワイン、そして、術後でもたばこをやめない不養生なベアトリスとは大違い。クレールがそのベアトリスを疎ましく思うのは当然であり、父の愛人の出現は迷惑千万である。


2人の接点

ベアトリスとクレール
(C)photo Miehael Crotto

 この2人、水と油の性格の人物設定で、いつ2人のわだかまりがとれるかが興味の焦点となる。その時は、ベアトリスの脳の手術後であり、一応経過は良好と医師は告げるが、余命数カ月の状態で、彼女はしょっちゅう眩暈(めまい)を起こすようになる。クレールはできたら付き合いたくない相手だが、ベアトリスの容態を知り、自分しか引き受ける人が居ず、アパートに引き取る。
この辺りから、心のわだかまりが解(ほど)け、年齢の違う親友同士となる。そして、堅物のクレールも徐々に心の鎧(よろい)を脱ぎ始める。ベアトリスに対してもトゲのある態度は影を秘め、心の安らぎを得る。
そして、今まで封印してきた愛情問題にも前向きの姿勢をとり始める。クレールは、かねてからの顔見知りである、隣の菜園主でトラック運転手のポールと親しくなり、第2の人生へと踏み出す。ポール役はダルデンヌ兄弟監督作品の定連のオリヴィエ・グルメ。彼の持ち味である。ひょうひょうとした善人ぶりには心がなごむ。
ドヌーヴ、フロ、グルメと、達者な役者がそれぞれの持ち味を出し、作品の持つ親近感を一段と深める。


作品の意向

 プロヴォ監督は3人の俳優に「自由」というそろいの服を着せている。ベアトリスは世間体を気にせず、恐いもの知らずに生きる自由。クレールには自分の仕事を奉仕の域にまで高め、人に尽くす自由。そして、トラック運転手のポールには、気ままに、自分の生活を楽しむ自由を与えている。
プレス資料で、ドヌーヴは「コメディーはポジティブに」と持論を展開し、プロヴォ作品もそれに沿っている。死期を悟り、ラストのクレールの元を去る時の置手紙で、「人生はそんなに悪いものではない」との辞世の一節をしたためる。「そんなに悪くはない人生」と「自由」をプロヴォ監督は描きたかったに違いない。
ライトを装うコメディーだが、人生の機微を感じさせるところが『ルージュの手紙』の魅力だ。



(文中敬称略)

《了》

2017年12月9日からシネスイッチ銀座ほか全国公開

映像新聞2017年12月4日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家