『ハッピーエンド』
カンヌ最高賞2回受賞した巨匠の新作 人間の内面の深層に迫る演出 |
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現代人が見て見ぬふりをするか、無視をする人間の内部に、鋭い視線を向ける作家として、オーストリアのミヒャエル・ハネケ監督がいる。その彼の新作で、昨年の第70回カンヌ国際映画祭コンペ部門に出品された『ハッピーエンド』の公開が始まった。同監督は、内面に巣食う人間性の本質に迫ることにたけた稀(まれ)な資質の持主である。
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ロラン一家
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映像とは目に見えるものであるが、見ることのできない人間性を描きとることは不可能に近い。この不可能な精神状況を見えるものとする作家に、スウェーデンのイングマール・ベルイマン、フランスのアラン・レネ(特に初期作品)、フランスのロベール・ブレッソンなどの大監督がおり、ハネケ監督もその系列の一員といえる。
この一連の大作家作品は難解で、娯楽性、大衆性とは程遠いが、映画を芸術の域に昂(たか)めることに寄与していることは間違いない。
今年76歳を迎えるハネケ監督は、1989年のカンヌ国際映画祭監督週間出品の第1作『セブンス・コンチネント』(本邦未公開)以来の大ベテランである。筆者は2作目の『ベニーズ・ビデオ』(1992年、本邦未公開)を監督週間で見る機会を得たが、説明を省き、人間の衝動だけを追う不連続な物語性に全く付いていけず、混乱をきたした。良く言えば、精神の中枢を撃つ作風であり、悪く言えば、見ることが苦痛な作品である。
しかし、この『ベニーズ・ビデオ』以来、ハネケ監督は自身のスタイルに磨きをかけ続け、ついに『白いリボン』(2009年)、『愛、アムール』(12年)で、カンヌ国際映画祭の最高賞「パルムドール」を2回獲得、大監督の地位を不動のものとした。
ハネケ監督はインタヴューで作品について触れ、現代の最大の問題は「無関心」としている。そのことは、私たち自身のコミュニケーションの不足、自己中心性、他人への残酷性から来ていると分析している。つまり、「無関心」という目に見えぬ心性を、彼がいかに映像化して見せるかが、作品を知るうえで最大の鍵となる。
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祖父ジョルジュ、書斎で
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「無関心」の実態を、彼は家族に託す手法で描いている。
舞台は地方ブルジョア家庭、ロラン家で、人員は3世代の構成。当主のジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニアン)は建設業で財を成すが、高齢のため既に引退。その事業を長女アンナ(イザベル・ユペール)が引継いでいる。なぜかアンヌの夫の姿は見えぬが、英国人で公認の愛人ローレンス(トビー・ジョーンズ)が存在する。この彼女が事業と家族を仕切る。いわゆるユペールが得意とする強い女を演じ、これが自然に極まっている。
アンヌが溺愛する息子ピエールには、ドイツ人俳優フランツ・ロゴフスキ、アンヌの弟で医者のトマには、監督としての実績もあるマチュー・カソヴィッツが扮(ふん)する。そして、もう1人、トマの前妻との子である13歳の少女エヴ(フォンティーヌ・アルドゥアン)が加わり、多士済々の面々が画面を彩る。
物語は幼いエヴの目を通し展開される。この少女が沈着冷静なのか、天性の底意地の悪さからか、物語をかき乱す。
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少女エヴ
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冒頭、スマホ画面に洗面所で化粧中のエヴの母の後ろ姿が写る。スマホの縦構図で、画面は真ん中の?、視覚的に人を引き込む効果がある。このスマホ画面がラストの大きな伏線となる。
次いで、かごの中のハムスターが、少女によって母親の抗うつ剤を飲まされ死ぬ。母親は神経を病み、薬を手離せず、オーバードーズ(薬の過剰摂取)の症状で入院。誰が毒を盛ったかは分からぬが、幼いエヴと想像はつく。
母親の入院で、彼女は父親トマの家族の元へ連れてこられ、大家族の一員となる。この少女、打ち解けない性格で、好意を示そうとする人々に容易になじまない、かわいげのない子なのだ。
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祖父ジョルジュ
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家族を題材に「無関心」の映像化
祖父のジョルジュはボケた様子だが、これがうそか本当か分からない。アンヌは仕事人間、家族とは親身なかかわりを持たない。エヴの父親のトマは、ほかに女性がいるらしく、みだらなメールを愛人に送り続ける。長男のピエールは自分を無能と思い込み、反抗ばかりする拗(す)ね者。母のアンヌは彼がかわいくて仕方がないと、皆バラバラで、家族の輪がいつ崩れてもおかしくない状態。
誰も、他人に積極的にかかわろうとしない。ハネケ監督が描くところの「無関心」である。
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母アンナ
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ある時、エヴは祖父のジョルジュと書斎で2人だけで話す機会を持つ。祖父はボケ老人を装うが、それは演技で、エヴが母親に毒を盛る真相を薄々気付いている。また、エヴは施設に送られることを極度に恐れ、自殺未遂を引き起こす。
それらの話し合いの前に、祖父は亡妻の若き日の写真をエヴに見せ、自分も老い回復の見込みのない愛妻を殺したことを告白。そして、互いにスネに傷を持つ身で、親近感が2人の間に生まれつつある。
エヴ自身は、精神を病み、口うるさい母親から逃げたい一心で毒を盛るが、あまり罪の意識を自覚していない。ここで、冒頭のスマホ画像が伏線として浮かび上がる。
ハネケ作品では、死が重大な意味を持ち、『ハッピーエンド』でも、死が近づく老人と、人を死に到らせる少女、死の影が色濃く滲(にじ)む。人生とは死のやりとりと、ハネケ監督は考えているフシがある。
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トマ(アンナの弟、医師)
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ロラン家は北フランス、英国の対岸にあるカレー市の裕福なブルジョア家庭である。しかし、同市は地理的に難民が英国へ渡る中継地であり、ハネケ監督は、自身が移民問題の当事者でないとしつつも、移民を弱者の視点から見ている。
ラストのロラン家の相続人たるアンヌと愛人のローレンスの結婚披露宴が、海辺のレストランで盛大に催される。そこへ息子のピエールが、移民の黒人数人を伴い会場へ押しかける。そして彼らに、もう少しばかりの関心をと呼び掛ける。
母親アンヌへの当てつけには違いないが、「無関心」に対するピエールの直接行動とも受け取れる。
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トマの二度目の妻アナイス
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ピエールの騒ぎで会場は混乱するが、そのすきをみて、ジョルジュとエヴは会場を抜け出し、エヴは祖父の車いすを海へと押す。水際ぎりぎりで彼女は車いすを止め、自らは踵(きびす)を返し陸へと向かう。祖父は自力で入水自殺を図る。それを見て、慌てふためくアンヌとトマ。悲劇が喜劇の様相を呈する。
ハネケ作品は、モノクロを思わす画調で、人間の内面の深層に迫ることを特徴としている。演出も繰り返しが多く、絶望感を盛り上げる。例えば、労働者に殴られ、寝台から動けないピエールの長々とした行為、または、入水自殺する祖父と孫娘の長いカットバックなどである。
これは彼の意図的な演出手法で、対象の奥深さをえぐり出す効果があるが、否定的に見れば、しつこく、くどい印象を与える。
死の影を常に意識させながら、隠れた人間心理に迫るハネケ作品は、決して明るくはないが、いや応なく人間性について考えさせる強い力が働いている。
(文中敬称略)
《了》
3月3日から、角川シネマ有楽町ほかロードショー中
映像新聞2018年3月5日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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