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『菊とギロチン』
民衆の自由を抑え込む暗黒の時代
国の体制に逆らう小さな力

 関東大震災(1923年9月1日)前後の日本は不況にあえぎ、天皇を頂点とする一部の政治家や軍隊、警察が国民の自由を抑え込む、暗黒の時代であった。そんな世の中を史実に基づき活写するのが、瀬々敬久監督の手になる『菊とギロチン』(以下『ギロチン』/2018年、189分)である。菊とは天皇制、ギロチンは弾圧者たる官憲を意味する。現在の極右傾化社会に対し、戦争への危険な道をはらむ"お国"に対する警鐘とも受けとれる作品だ。

 
関東大震災は、東日本大震災(2011年3月11日)と並ぶ天地異変であり、被災者は190万人、死者・行方不明者10万5千人の被害を出した。(ちなみに東日本大震災での死者は1万5894人)。東京自体、荒れ野原と化した大災害で、当時を経験した故人の言によれば「この世の終わり」とのこと。激烈な災害であったことを思い知らされる。
  この時代、上からの抑圧が強大で、特に共産主義者、社会主義者など、過激社会運動家を標的とする取締法案が1922年に帝国議会に提出された。この反社会主義者(俗に主義者と呼ぶ)を対象とする法案は、1917年のロシア革命による共産主義革命運動の過激化を懸念したものとされている。 それは1941年から「治安維持法」と名を変え、敗戦まで存在した。法的後ろ盾を得た政府は、まず共産党を一網打尽にし、同党を解党させたが、非合法の共産党活動弾圧は敗戦まで続いた。
  そして、わが国の独裁権力に対する反権力闘争は皆無となり、フランス、ドイツ、イタリアなどで見られるレジスタンス運動は存在しなかった。100歳で亡くなった映画監督の新藤兼人は、戦前・戦中の映画界について「左翼が多かったが、反体制的動きやレジスタンスは皆無」と断言している。この発言は、日本映画史を語る上で極めて重要な歴史的証言と受け止めるべきだ。


甘粕事件

 関東大震災直後の1923年9月16日、憲兵大尉甘粕正彦ら数人により、無政府主義者である大杉栄が殺される「甘粕事件」が発生した。震災直後には自警団による朝鮮人、中国人虐殺事件も起きた。
話は少しそれるが、大杉栄事件の首謀者とみなされる甘粕正彦は、懲役10年の判決が下るも恩赦減刑で2年10カ月となり、出所後には夫婦でフランスに留学。その後、占領下の満州に渡る。最終的には、占領プロパガンタ映画製作や邦人向けの映画配給を手掛ける、満州映画協会(満映)の理事長に就き(1939年)、敗戦の年(45年)に自殺する。
わずかな刑期、フランス留学、そして満映理事長の要職に就いた彼の足跡から、政府、官憲の身内処分の甘さに驚かされる。この殺人犯が映画人だったとは、笑止千万である。  
  



結社ギロチン社

ギロチン社、寛一郎(左)と中濱(右)
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎

 命をかけた若者たちの短い青春
この甘粕事件により触発され、それが引金となり左翼革命運動体が実力行使を重ねる。とりわけ、世の中を変えたいと願う青年たちは、何か行動を起こさねばと考え、革命の実現を目指し、結社ギロチン社を立ち上げる。
リーダー格は、詩人の中濱鐡(東出昌大)、そして革命の理想を追い求める早大中退の心優しい古田大次郎(筧一郎)が中心であり、10余人がメンバーを組む。一方、大杉栄(小木戸利光)に傾倒する労働運動社は、村木源次郎(井浦新)が中心となり、両グループのつなぎ役となる。
既に共産党を壊滅させた体制側にとり、ギロチン社の手製小型爆弾は有力な武器とならず、村木は獄死、中濱と古田は死刑となる。瀬々監督の狙いは、例え小さな力でも、体制に穴をあける志を持つ若者たちの青春を描くことであったに違いない。
弱小の人員と資金のない彼らは、銀行強盗、財界人へのリャク「略奪」(掠=略奪)を繰り返す。しかも、リーダー格の中濱は、せっかくの金を酒や女に費やし、革命の純粋さを平気で踏みにじる行為に出る。実際、当時の左翼の自堕落な生活ぶりも写し出されている。
ギロチン社は、震災前に本拠を関西に移すが、これもリャクの行き詰まりであろう。生産手段を持たぬ、市井の血気盛んな若者の怒りの行く末である。
『ギロチン』は、左翼と女相撲を交互に描く構成である。すれ違うはずのない者たちの触れ合いが劇的効果を挙げている。この辺りの語り口のうまさ、瀬々監督の力量だ。





女相撲とは

土俵上の稽古
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎

 物語を動かすのは、ギロチン社と女相撲との出会いだ。震災で東京に住めず、一端、関西に居を移したメンバーの中濱と古田が、一時的に千葉県の船橋に滞在し、そこで女相撲一行と知り合う。ここで両者の出会いが生まれる。
女相撲の歴史は古く、江戸時代から存在するが、興行としては1880年(明治13年)に山形県での旗揚げとされる。興行は村芝居と同様、各一座が全国を巡り、行く先々で相撲興行を開催する。エログロナンセンスを想像しがちだが、女力士は肌襦袢(はだじゅばん)を着て、半股引(はんももひき)をはき、その上に回しを締める衣装で、女の裸の見世物とは一線を画す。
村々を巡業する一座
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎

興行形態は一番勝負や5人抜きの「相撲の部」、歯力や腹の上の餅つきなどの「大力の部」、日本各地の民謡を唄い踊る「余興の部」の3部構成。特に、土俵の周りで踊る「いっちょな節」の乗りの良さは絶品だ。バラエティーに富み、観客を飽きさせない趣向となっている。
観客は初めエログロを期待するが、女力士たちのひたむきな真剣さに見入り、ついつい応援の歓声を飛ばす。ギロチン社の若者も、彼女たちのひたむきさにほれ込み、すっかりはまり込む。
この相撲興行は、息長く続き1956年(昭和31年)まで存在する。



花菊、女相撲界へ

女相撲、花菊(右)
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎

 ギロチン社の若者たちを熱中させた女相撲一座の一員で、古田と思いを寄せあう花菊(木竜麻生〈きりゅうまい〉)の存在が興味深い。貧農へ嫁いだ姉の死により、代わりに嫁となる。そこでの亭主による絶え間ない暴力、性愛のみの対象たる存在、そして子供を産む道具扱いに耐え兼ねて、女相撲に飛び込む。一介の農村女性が全く違う世界に飛び込み、身を立てる困難を百も承知の上で―。
女力士は1人前になると、普通の男子では勝てないくらいの力をつけるそうだ。この彼女、好きな古田に真情を吐露する。この場面こそ、当時の女性の置かれる立場を如実に現わしている。彼女の口癖は「強くなりたい」で、「女でも強くなれば何でもできる」と口にする。そのひと言にほだされ、古田は一座に加わる。
もう1人の女相撲の重要な役が、朝鮮人で元遊女の十勝丸(韓英恵)である。女好きな中濱が手を出す女性だが、彼女は日本で数々の差別行為を受けている。それを知った中濱は、土下座し「日本人を代表して君に謝る」と口にする。差別の標的とされ続けた彼女は「差別のない平等な世の中にしたい…」と語り、テロリスト中濱や古田と心を通わす。
この場面は作品のハイライトで、戦前の日本人女性の地位や朝鮮人への激しい差別に対し、瀬々監督の「これだけは言っておきたい」とする、強い意志が感じられる。
関東大震災を挟み、敗戦までの日本はまさに暗黒時代である。その中で、「世の中を少しでも良くしたい」、「世界に風穴をあけたい」と命をかけた若者たちの短い青春が、強烈なタッチで描かれている。
現代を生きるわれわれも、このような先人たちの闘いがあってこそ、曲がりなりにも戦後の民主主義の恩恵に与(あずか)っているのだ。もし、この現状を後ろ向きにする動きが出るならば、それを阻止する務めが、われわれにある。そこが作品の訴えである。

女相撲一座
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎
ギロチン社の若者たち
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎

町を行くギロチン社の一党
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎
土俵上の女力士
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎

捕えられる中濱
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎
古田大次郎
(C)2018 「菊とギロチン」合同製作舎

 



(文中敬称略)

《了》

7月7日(土)よりテアトル新宿ほかにて全国順次公開

映像新聞2018年7月9日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家