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『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』
コンプレックスに悩む高校生の青春
困難を抱えつつも乗り越える姿

 押見修造の人気コミックの映画化が『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(以下『志乃ちゃん』/湯浅弘章監督、脚本:足立紳)である。綿菓子のようなとらえどころのない、青春恋愛ものが氾濫する昨今、マンガ原作らしからぬ、歯応えがある。言葉の語頭がうまく出ない女子高生、志乃の自身の闘いを描く、硬派な作品である。

 
この『志乃ちゃん』には元ネタがある。原作者押見修造自身の「吃音(きつおん)症」である。別に身体障害的な病気ではない。吃音とは、言葉が流ちょうに出てこず、滑らかに話せないことである。彼自身、母音からの発音が苦手で、例えば「ありがとう」の「あ」に困難を感じる。
主人公志乃も同じ設定としている。悩み多き青春の中の1つの出来事としての「吃音」を取り上げ、「作中、意図的に〈吃音〉という語は避けた」と彼は述べている。この症状のおかげで、押見自身、相手の気持ちにすごく敏感になり、人の表情やしぐさから感情を読み取る能力が発達するという副産物を得たと語っている

厄介な点

若い2人、加代(左)志乃(右)
(C)押見修造/太田出版?2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

 言葉の滑りが悪いことは、本人にとり厄介な問題となる。つまり、コミュニケーション不足を招き、1人孤立する危険性がある。会話の中で母音が滑らかに出ないと、周囲は面倒がり、ハナシを聞かないことが起こり得る。そして、自分だけが浮いた存在と思い込み、自身を攻め、周囲を拒絶する場合がある。
これは病気ではないが、気持ちの重荷となり、これを『志乃ちゃん』はいかに克服するかが、作品の見どころとなる。  
  



新学期の朝

街中の2人
(C)押見修造/太田出版?2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

 目覚まし時計がいつものように鳴る。今日の始まりだ。特別な日、高校の新学期である。
ベッドから眠い眼(まなこ)をこすりながら、主人公志乃(南沙良)は起き上がる。新しい制服を着て鏡に向かい、何かしゃべり出す。新クラスでの自己紹介の練習だ。ここから志乃の苦難が始まる。
教室では、各人が自己紹介をする。彼女の番が来て、何かを言おうとしても言葉にならない。しゃべろうとするたびに詰まり、自己紹介で「大島志乃です」が出てこない。周囲は奇異なまなざしで「変わった子」とばかりに眺め、次いで嘲笑する。最悪の新学期の始まりだ。




加代との最初の出会い

街中の3人 菊地(左)
(C)押見修造/太田出版?2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

 誰にも相手にされず、下ばかり見て、顔も上げられない志乃、恥ずかしさと屈辱感で気持ちが張り裂けそうになる。
下校の際、自転車置き場で加代(蒔田彩珠)にぶつかるが、謝ろうにも言葉が出ない。八方塞がり状態で、ストレスがどんどんたまる。その加代に翌日謝りに行くが、彼女もちょっと突っ張り気味な少女、孤立し、ぶっきら棒だが、2人はまず筆談で「一緒に帰ろう」と志乃が提案する。
独りぼっち同士の2人、別れ難く、加代は志乃を自宅に誘う。初対面の2人、言葉の問題もあり、うまく会話を交わせず、何となく気まずい沈黙が流れる。その後、新しい展開が待ち受ける。



1本のギター

志乃
(C)押見修造/太田出版?2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

 何も話すことのない志乃は、1本のギターに目を付け、加代に1曲せがむ。照れ屋の加代は志乃のしつこさに根負けし、渋々弾き語りを一曲披露するが、これがひどい音痴。つい志乃は笑ってしまうが、後が大変。カンカンの加代は、ギターをぶん投げ、志乃に「帰れ」と言う。
泣きながら帰る志乃、ここで終われば、単なる少女漫画のラストだが、もうひと工夫巡らされている。



仲直りの2人

加代
(C)押見修造/太田出版?2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

 加代は志乃の歌のうまさに驚き、2人でユニットを作ることを強引に彼女に納得させる。実際、志乃は『あの素晴らしい愛をもう一度』(1971年)と『翼をください』(70年)を見事に歌いこなす。
2人は手始めに、橋の上でリハーサルを始める。ジーパンにギターのボーイッシュな加代とワンピースで長髪の志乃のユニット「しのかよ」の誕生である。
若い人が知り合い、ユニットを組むとは。彼らの行動がこんなに早いものかと、年配者から見れば不思議な気がする。ここが若さの特権かもしれない。また、2人の屋外リハーサル
場面は、沼津市の海を背景とし、絵柄としても申し分ない。



ワンパターンな筋展開

カラオケでの練習
(C)押見修造/太田出版?2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

 いろいろと策をこらし、若い女の子の友情、それも、志乃の言語障害を通しての物語進行。繰り返しが多く、脚本にもう一工夫欲しいところだ。
もちろん、2人以外に中学時代イジメに遭い、今はひょうきん者を装う菊地を絡ませるあたり、苦心の結果であろう。女の子同士の友情にイジメ問題を絡ませる狙いは良いが、果たして有効かは疑わしい。
その後、3人ユニットが固まり、文化祭の公演に向けての準備となる。お調子者の菊地は、仲間に参加する嬉しさで、タンバリン片手のタコ踊りまがいの当世風の振りで、1人で踊りまくる。普通なら、文化祭の3人組の演奏で、めでたし、めでたしとなるはずだが、現実は大違い。公演に向けた練習で、志乃がまたしても、言語障害の発作を見せ始める。
大勢の観衆の前にした演奏で極度の緊張感に縛られ、自分は何の価値もない人間と思い込み、仲間とのコミュニケーションを自らぶち壊す。ちょっとした神経の高ぶりを、あまり深く考えずに、もっと気楽に考えたらと思うが、この繰り返しではダレてしまう。もう少し、脚本での刈り込みと締め上げをせねば、この単調な流れは断ち切れない。それには、文化祭前の志乃の心理状態よりも行動に重点を置き、もっと短くするなどの工夫はあってもよい。



圧巻のラスト

先生(左)に励まされる志乃
(C)押見修造/太田出版?2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

 物語を締めるラストの発言
ユニット解散、文化祭プログラムは進行、会場には出番を待つ加代。いよいよ彼女の番が来て、オリジナル曲「魔法」を、ギターを抱えてのソロ。彼女の音痴は相変わらずでも、構わず加代流で飛ばす。彼女の堂々たる音痴ぶり、最初は笑いをかみ殺していた聴衆も、次第に耳を傾け始める。
そこへ志乃が現われ、必死に語り掛ける。彼女は「わっ、わっ、私は自分の名前が言えない?」目に涙を浮かべ堰(せき)を切ったように「わ、わたしの名前は、お、お、お…大島志乃」と、まるで呪縛から解き放されたように声を上げる。志乃の魂の絶叫である。
「コワイ、コワイ、だから逃げ回る自分。ちゃんと話せない自分が恥ずかしい、それが全部自分であり、今の私の状態」と不自由な言葉で精一杯の吐露。ここに志乃の、自分1人でも強く生きて見せる思いがこもっている。
このラストの志乃の発言こそ物語を締め、作り手の言わんとすることと直接結びついている。人は誰でも困難を抱え生きるものであり、また、乗り越える力を持っていると、見る者を励ましているようだ。
ラストに来て、「俺が言いたいのはコレダ」と作り手は力をこめて、背中を押す。破綻も多いが、言うべきことは伝える、芯(しん)のある作品だ。






(文中敬称略)

《了》

7月14日から新宿武蔵野館ほか全国順次公開

映像新聞2018年7月16日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家