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『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男』

マッケンロー(左)、ボルグ(右)
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

 
ボルグ 記者会見
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

 テニス界の2人のスーパースターに焦点を当てた作品『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男』(2018年/ヤヌス・メッツ、スウェーデン・デンマーク・フィンランド製作、108分)が公開される。1980年、ウィンブルドンでの2人の対決とその前の心理状態を描き、映像的にはプレーの迫力に圧倒される。

 
1980年のウィンブルドン決勝の注目の的は、スウェーデンのビヨン・ボルグ(スベリル・グドナソン、今年40歳の人気俳優、『ストックホルムでワルツを』〈14年〉、ペール・フライ監督)の前人未踏、大会5連覇であった。対戦相手は、アメリカの新星ジョン・マッケンロー(シャイア・ラブーフ、『ニンフォマニアック』〈13年〉、ラース・フォン・トリア監督)である。


ボルグ初優勝

 私事になるが、1970年代パリで過ごした筆者は1974年の全仏選手権(ロラン・ガロス)における、18歳のボルグの初優勝を目にする機会があった。対戦相手は、格上のプレイヤー、スペインのマニュエル・オランテスで、1セット、2セットは既に実績のある彼が、6-2、7-6と貫録を見せ、新人ボルグの敗色が濃厚であった。第3ゲーム、ボルグのボールがラインを越えた、越えないで、判定までしばらく時間を要した。筆者は、ボールはラインを割ったように思えた。しかし、判定が下るまで、18歳のボルグは全く動揺する様子を見せなかった。判定はボルグのボールのインとされ、勢いに乗っていたオランテスは気落ちしたのか、この判定を機に6-0、6-1、6-1と大崩れ、ボルグ初の全仏選手権制覇となった。その上、彼の落ち着いた態度から、精神力の強さを見て取った。この優勝から、1970年代後半は、ボルグの時代となった。  
  

モナコのボルグ

 冒頭、海を見下ろすモナコの高級レジデンスのバルコニーから、海を眺めるボルグの姿が写る。美しいリビエラの海と太陽の元、バルコニーに手を掛け、今にも飛び降りそうな彼がロングで捉えられる。飛び降りるか、留まるか、戸惑っているようだ。神経のバランスを失っているようにも見える。当時のテニスプレイヤーはプロ化が認められ、トップクラスの収入は莫大で、彼らの多くが、税金の安いモナコに居住していた。いわゆる税金対策で、億万長者の彼もその一員である。
彼には、ツアー仲間で一緒に暮らす婚約者で、東欧の女子テニスプレイヤー、マリアナ・シミオネスク(ツヴァ・ノボォトニー、スウェーデン)がいる。彼女は、女子ランキングで10位前後の選手だが、タイトルには手が届かなかった。馴れ初めは全仏選手権で、夜ボルグからの電話での誘いで出かけると、1対1のデートではなく、彼の友人たちも一緒だったと証言している。モナコでは生活を共にしたが、その後、別れたニュースを聞いている。



ボルグの少年時代

 ボルグはストックホルム近郊で生まれた。家庭は貧しく、ある時、試合での態度が悪く、テニス向きでないと関係者から言われる。1970年代頃までは、テニスは一部の富裕階級のスポーツとされていた。
ボルグ少年、自宅近くのガレージ前で、扉に向かい1人で練習に励んだ。彼は「氷の男」と言われているが、実は、すぐ頭に血が上る短気な少年であった。その彼に注目したのが年配のレナート・ベルゲリン(ステラン・スカルスガルド、スウェーデン)であった。
実際に2人一緒でいるところを見たが、親子ほどの年齢差を感じさせた。レナート・コーチは、大きなトーナメントで3度も準々決勝まで進み、テニスを熟知している人物である。レナートは、ボルグ少年をスウェーデン、デ杯のメンバーに入れたのが15歳の時。そして、ツアーデビューは1972年で、弱冠18歳で全仏選手権に優勝(1974年)し、通算6勝の優勝最多記録を樹立。1974年優勝以来、フランスでは、自国のロラン・ガロスが育てた選手のように見られ、凄い人気であった。



ロラン・ガロス(全仏選手権)

 筆者が経験したフランスのロラン・ガロス・スタジアムでも、1970年代前半は閑古鳥が鳴くほどであった。しかし、ボルグの登場で、テニスは人気スポーツとなり、1970年代後半に同スタジアムが大改築されてから入場者数が格段に増えた。会場には、当時のパリ市長で後の大統領となる、ジャック・シラク、大物俳優のジャン=ポール・ベルモンド、モーリス・ロネ(俳優、『太陽がいっぱい』)、モナコのカロリーヌ妃などの顔が見られ、特等席は一種のステータスとなった。


マッケンロー

マッケンロー 記者会見
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

 
抗議するマッケンロー
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

 本作は1980年のボルグ、マッケンロー両雄のウィンブルドンにおける決勝対決を物語の芯に据え、対決前の両者の心理的葛藤に焦点を当てている。内容は、分量的にボルグの方が多く、マッケンローには多くを割いていない。アメリカ映画ではなく、スウェーデンなどの製作で、自国の英雄ボルグ中心として構成されている。
マッケンローだが、ボルグの「氷の男」に対し、「炎の男」と名付けられている。彼は判定が気に入らぬと、審判に抗議し、挙句の果てにラケットをコートに叩きつけたりと、大変な荒れ方をする。彼にとり、「俺は体を張っているのだから、審判はきちんと見ていてくれ」との真情なのだろう。一見粗野な立居振る舞いを見せるが、彼の父は著名な弁護士で、裕福な家庭に育つ。名門スタンフォード大学に進学したが、プロ転向のために中退している。
このように、マッケンローの悪童振りは、自己のテンションを高めるためかとも推測できる。怒ってみせ、精神統一する方法だ。一方、ボルグは全仏で最初の優勝に輝いたオランテス戦では、微妙な判定に抗議せず、黙って、ことの成り行きを見守った経緯がある。とても18歳の少年のできることではない。本来、彼も、マッケンロー同様、短気な性格の持主であるが、大変な努力で「氷の男」を装ったのであろう。



ウィンブルドン優勝決定戦

試合中のボルグ
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

 1980年6月23日、ウィンブルドンの芝生コートで2人は対決した。
本作のラスト部分であり、映像は実況を見ているような臨場感があった。ボルグ役のグドナソンは、本物と思わすくらいの、そっくりさんだが、マッケンローのラブーフはそれほどでもなかった。
既に、全仏で4勝、ウィンブルドンでは1976年の初優勝以来4連覇で、1980年に5連覇を狙うボルグは、1970年代後半は圧倒的強さを誇った。一方、マッケンローは、1980年にウィンブルドン初の決勝進出と勢いがあり、新旧2強による対決は、ボルグの5連覇がかかり、大変注目された。第1セットは6-1でマッケンロー、第2セットは5-7でボルグが取り、両者とも譲らず、勝敗行方は誰も予測出来なかった。その後、接戦となり、第3セットは6−3とマッケンロー、土俵の徳俵に足をかけたボルグだが、第4セットは7-6、第5戦は8-6と接戦を制し、王者の面目を保った。この3時間55分に及ぶ対戦はテニス史上の名勝負とされている。本作では、ゲーム状況を本物の闘いと思わす迫力で再現している。これはCGの多用で、精妙さには大変驚かされる。


試合中の両者
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

ボルグ優勝の喜び
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

決勝戦を終えて
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

レナート コーチと婚約者マリアナ
(C)AB Svensk Filmindustri 2017

トロフィとボルグ
(C)AB Svensk Filmindustri 2017




その後

 この決勝の2年後にボルグは26歳で引退、マッケンローの時代となる。1980年を境に、テニスの世界は変わってきた。ラケットが従来の木製からカーボン、グラスファイバーなどに代わる。プレースタイルも、ボルグのベースライン上でのラリーの応酬から強力サーブ&ボレーへと変化し、現在に至る。
本作は、新旧の時代を代表するプレイヤーの、テニスに賭ける情熱と狂気を通し、大一番前の2人の勝負への恐怖を描いている。その心理状態の揺れが興味深い。






全仏選手権(ロラン・ガロス)ボルグは本人
   ※写真 (C)八玉企画

ジャック・シラク (当時 パリ市長)

ジャン=ポール・ベルモンド(中)

モーリス・ロネ

モナコ カロリーヌ妃

ロラン・ガロスのボルグ

ロラン・ガロスのボルグ

ロラン・ガロスのボルグ

ロラン・ガロスのボルグ

ロラン・ガロスのボルグ




(文中敬称略)

《了》

8月31日TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー

 

 

中川洋吉・映画評論家