『きみの鳥はうたえる』
佐藤泰志の小説の映画化4作目
定石の青春群像スタイル |
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佐藤泰志(さとう・やすし)といえば、函館在の新進作家であったが、1990年に東京・国分寺の自宅近くで、自ら41歳の生涯を閉じた。無名の彼、小説『海炭市叙景』が映画化(2010年公開)された後、一躍世に知られた夭折の逸材である。その彼が1981年に執筆した『きみの鳥はうたえる』が、4作目の映画化作品として公開される(2018年、三宅唱監督、106分)。
佐藤泰志は1949年函館に生まれ、大学は東京の國學院大學で、その後は東京と函館、両都市を足場に執筆活動を続ける。しかし、彼の描く原風景は、空気が透き通るように白い北海道・函館であり、同地こそ、彼の精神的バックボーンとなっている。
北欧を思わす透明感が彼の作品にあり、その一見寒々とした光景から生み出される、人間関係と距離感が映像から汲み取れる。そこが彼の作品の魅力であり、また作家の背から物語を感じさせ、多くの人がひかれる。例えるならば、人々がゴッホ、そして奄美大島で最後を終えた田中一村の絵画の背に多くの物語を感じ取るのと同じである。佐藤文学にも同様のことが言える。
若くして自死した佐藤は、文学的には堂々たる実績の持ち主である。高校時代から小説を書き始め、有島青少年文芸賞優秀賞を2年連続受賞。大学卒業後は、1977年に『移動動物園』で新潮新人賞候補、そして82年には本作『きみの鳥はうたえる』で第86回芥川賞候補、以降5回も同賞候補になりながら受賞には至らない。
この辺りが、彼の鬱積(うっせき)の大きな原因と考えられる。芥川賞候補作1本で文筆を生業にする作家もおり、なぜ賞に手が届かないのか、この事実1つをとっても、彼の背負う物語が垣間見える。彼が芥川賞を渇望したことは、当然の感情である。
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若い3人、静雄(左)、佐知子(中)、僕(右)
(C)HAKODATE CINEMA IRIS
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原作の舞台は函館だが、本作は東京に変更されている。この意図、異論は挟まぬが、理由がつかみにくい。しかし、冒頭のタイトルバックで黒い函館の夜景が映り、海の向こうに、これまた黒い山がそびえ立つ。佐藤文学の暗さと空気感を象徴しているようだ。
時代は1970年代で、主人公の生き方とよくマッチする高度成長時代である。夜の繁華街に青年が人待ちをしている。そこへ主人公の僕(柄本佑)が現われる。もう1人の小柄な青年、静雄(染谷将太)との2人組で、僕は書店のアルバイト、静雄は無職。まさに、70年代の高度成長時代の青年たちである。
彼らは定職に就かず、フリーターとして働き、仕事に生きるほかの青年たちとは違う感性の持主であり、この時代の典型的なドロップアウトの青春像を地で行く生き方だ。僕は言われたことはやるが、それ以外はやらない。静雄は無職だが、密かにハローワーク通い。彼には離れて暮らす母親(渡辺真起子)がいるが病身で、彼は彼女を避けるように僕と共同でアパート暮らしをしている。
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酔う3人
(C)HAKODATE CINEMA IRIS
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2人組の青年の間に入り込むのが、佐知子(石橋靜河)である。大体、若い男2人と1人の女性のトリオは、1組のカップルができ、1人が余るという図式が一般的であり、本作もこの定石を踏んでいる。
いわゆる青春群像スタイルで、痛みや苦(にが)さをドクとして効かせている。作り方としては、オーソドックスでシンプルな構成だ。そのため、各登場人物の描き方が作品自体の質を決める。
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佐知子
(C)HAKODATE CINEMA IRIS
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2人の男性に挟まれる女性に力点
物語の狂言回しとして、2人の男性に挟まれる佐知子という女性に力点が置かれている。彼女は僕と一緒に書店で働くが、この職場の上司島田(萩原聖人)ともねんごろであり、本人も隠し立てをする様子がない。
僕と佐知子は、何となく「今夜1杯どう」と職場で声を掛け、終業後落ち合うことになる。大して期待もしないデートだけに、僕は120数えて来なければ帰るつもりであったが、100数えたころに彼女が現われる。この数えがラストの大きな伏線となる。
きっかけがつかめず会話は弾まない。仕方なく、僕は2時間後に飲み屋で会うことを提案、いったん2人は別れる。何とも間の抜けた出だしである。僕はアパートに帰り、静雄と夜明けまで酒を飲み、そのまま寝込んでしまい、彼女との約束を破る。
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僕
(C)HAKODATE CINEMA IRIS
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静雄
(C)HAKODATE CINEMA IRIS
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翌朝の仕事前、2人は職場近くの喫茶店で顔を合わせ、朝食を取る。僕は一応謝るが、彼女はあまり気にしていない様子。この彼女の態度がなかなかユニークである。その上、自分のサンドイッチを僕に食べさせたりして、親切に振る舞う。
戸惑う僕だが、それを契機に彼女は2人のアパートに顔を出し、3人で遊んだり、飲んだりと仲間のように暮らす。3人でコンビニに行き、佐知子が支払い、その上、月末で金のない僕に小遣いまで渡す。それも全く恩着せがましくなく。静雄は黙って2人の様子を見守る。この辺りから3人の間柄がおかしくなり始める。
僕と佐知子はアパートで結ばれ、外から帰った静雄は2人の関係を知る。僕にとり、彼女と静雄との間柄は大いに気になるところだが、友情という鎧(よろい)から抜け出せない僕、一応、無関心を装う。この、若さからくるやせ我慢、見ている方がイライラする。お決まりの1人余りである。この辺りの描写が淡々と綴られ、作品の良さとなっている。
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静雄の母親(左)
(C)HAKODATE CINEMA IRIS
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飲み会では、踊りも歌もうまく、さばけてノリの良い佐知子にひかれ始める静雄。しかし佐知子への真情を僕に告げる勇気がない。いつかは破綻することが分かる関係は、作者、佐藤泰志の姿を反映しているのではなかろうか。
彼自身にとり、執着は何度も手にしかけた芥川賞であり、その裏返しが佐知子であることは容易に想像できる。僕の鬱積状態は、静雄と佐知子の間柄に対する無関心の装いとなり現われる。愚直だが、誰もが一度は経験する青春の心の痛みであろう。
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書店の店長 島田
(C)HAKODATE CINEMA IRIS
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ある時、佐知子は「私は静雄と付き合う」と僕に告げる。いわゆる三下り半だ。店長とは切れ、3人のはっきりしない関係を清算しやり直したい彼女の真意を、僕は受け入れざるを得ない。
彼女は、自分のことは自分で決める自覚的人間である。一例として、恋の最終帰結は性愛であり、僕と関係を持つときも、望まない妊娠を避けるために避妊具を用意している。そのことを恥じらう態度を微塵も見せない。このように、自分の意思をきちんと持つ、佐知子の存在こそ、作家、佐藤泰志が心に描いたマドンナではなかろうか。
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函館港で
(C)HAKODATE CINEMA IRIS
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佐知子に去られ、茫然自失の僕は、突如、1,2…と数え始め、彼女を追いかける。そして、彼女に「愛してる」と不器用に告げる。しかし、一度宣言した彼女は、ただただ僕を見つめ、ひと言も発しない。僕にとってはお笑いの悲劇で、ラストとなる。
佐藤文学の鬱積した青春が、華麗とはほど遠い、ゴツゴツした感触を振りまきながら展開される。
そこには、若い世代も老年世代も思い当たる、青春の興奮と苦いひとコマが焼き付けられ、見る者はそこにひき付けられる。
(文中敬称略)
《了》
9月1日から新宿武蔵野館、渋谷ユーロスペースほかロードショー、
以降全国順次公開 (8月25 日から函館シネマアイリス先行公開)
映像新聞2018年8月20日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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