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『モアナ 南海の歓喜』
ロバート・フラハティ作品を復元
民俗学から「地上の楽園」を再現

 ロバート・フラハティ(1884−1951)と言えば、ドキュメンタリー映画の開拓者と呼ばれ、映画史にその名をとどめている。その彼の傑作とされる『モアナ 南海の歓喜』(以下『モアナ』/1926年製作)がサウンド版・デジタル復元版として上映される。太平洋、ニュージーランドの北にあるサモアの人々の暮しを描く、今で言えば、ルポルタージュの範ちゅうに入る作品であり、地上の楽園の素朴な良さと美しさには目を見張るものがある。

モアナ
(C)2014 Bruce Posner-Sami van Ingen. Moana (C)1980 Monica Flaherty-Sami van Ingen. Moana (C)1926 Famous Players-Laski Corp. Renewed 1953 Paramount Pictures Corp.(以下同様)

彼の作品は、映画学徒にとって基本中の基本であり、少ない上映機会を逃さず見たものであった。ちょうど、映画の世界の人間にとり、セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』が映画学習の教科書的作品とされたことと同義である。
米国人、フラハティの手法は、家族といっしょに現地で長期滞在し、その現地の人々と生活をともにしながら撮影をするシステムである。日本で言えば、「三里塚」シリーなどを手掛けた小川伸介監督の名が挙げられる。
フラハティの影響を受けた彼は、フラハティ同様、三里塚、東北地方での長期合宿撮影を実行した。その上、ロバート・フラハティの妻フランシスの著書『ある映画作家の旅 ロバート・フラハティ物語』(みすず書房、1994年刊行)を翻訳している。小川伸介監督にとり、ロバート・フラハティは師匠格である。


フラハティ一家

海岸のヤシの木

 フラハティ一家は、1923−24年に現地ロケをサモアのサヴァイイ島で実施したが、夫妻は3歳の三女モニカを伴っている。夫人のフランシスは『モアナ』の共同監督で、製作、脚本、そしてカメラもこなし、文字通り夫ロバートの最大の協力者である。
後に娘のモニカは、無声映画のサウンド版『モアナ』の録音から音作り、編集を現地へ赴き手掛けた。3歳の時、両親と過ごした南太平洋の楽園の記憶が、彼女の活動の原動力になっているのに違いない。  
  



製作過程

モアナの婚約者ファアンガセ

 無声の『モアナ』のサウンド版、デジタル復元版の製作過程だが、モニカが1980年にサウンド版を完成、デジタル復元作業は2014年までかかっている。モニカは、このサウンド版製作作業を自力で漕ぎつけた(実際は映画関係の基金などの手助けがあったようだ)。
復元版に関しては文字通りの「復元」で、世界に現存する『モアナ』のプリント集めから始めた。モニカ自身が所蔵する16_プリント、米国議会図書館所蔵の可燃性35_プリント、英国映画協会(BFI)所蔵の複製の35_プリント、さらにプロジェクトの終盤でニュージーランド・フィルム・アーカイブ所蔵の可燃性35_フィルムなどが見つかり、より良い復元が可能となった。
この復元部分が公的映画機関であることに注目せねばならない。日本も今年4月に、国立映画アーカイブ(旧フィルムセンター/東京・京橋)が誕生したが、まだまだ発展途上の感があり、特に戦前の作品の収集に力を入れてもらいたい。同アーカイブの相模原分館には、世界に誇れる空調完備の保蔵庫がある。今後の発展を期待したい。




復元ドキュメンタリー

ファアンゼセ

 『モアナ』の撮影は、1923−24年にサモアで実行された。しかしフラハティの狙った、絵に描いたような地上の楽園は、既に多くが失われていた。しかも、実際は前人未到の処女地ではなく、彼が同地に足を踏み入れた1923年に約100年前に最初の宣教師が入り、キリスト教化が始まっていた。同様に、それまでの「無文字社会」は幕を閉じ、文化自体が大きく変化した。
民俗学的見地からサモアをとらえようとしたフラハティは、昔の楽園の再現を試みた。これらの作業により、島にまだ残る多くの自然を背景に地元住民を起用し、かつての楽園を蘇(よみがえ)らせた。そのため、島民の心情、伝統的な習慣、儀式、暮らし方を知るために2年もの長期滞在をし、古来の民俗学的要素の抽出に意を注いだ。



ドキュメンタリーの定義

モアナの父親

 ドキュメンタリー映画の原点
「ドキュメンタリー」という言葉は、1926年に新聞評で使われ定着し、その後、同語が一般化した経緯がある。しかし、筆者にとり引っ掛かる点がある。
新藤兼人監督の『裸の島』(1960年公開)では、瀬戸内海の孤島(無人島を使用=実際は1人の男性が暮らしていた)で自給自足の生活をする夫婦と子供2人の家族の日常を、セリフなしで描いている。島には水がなく、畑の水用に隣島から船で運び込むといった、果てなき労働と自然との戦いが強いられる。
この新藤作品も、再現ドキュメンタリーとは変わらないが、フィクションとして扱われている。再現もドキュメンタリーと認める考えが一般化し、フラハティはドキュメンタリーの始祖と呼ばれるようになった。少しばかりの疑問は残るが、ドキュメンタリーの手法の1つとして考えればよいのかも知れない。



伝統的暮らし方

祭りの踊り

 サモア伝統の暮らし方が多層的に展開される。この暮らしの写し取りが、最終的に伝統的な結婚式へとつながる。
冒頭、島の海際の高いヤシの木に、少年がスルスルと登る。天にも届きそうな木の前に開けるのが、熱帯の透き通る海と青い空である。ここで、サモアの自然が一発でとらえられる。楽園の入口だ。木々の足元はうっそうたる森で、そこで住民たちは食糧を集める。



登場人物

くつろぐ女性たち

 中心となるのはルペンガ一家、島の長たる存在のようだ。彼にはモアナ、ペアの2人の息子がいる。モアナは成人で、結婚式を控えている。相手はやはり有力者の娘、ファアンガセである。弟のペアは小学生くらい、彼は一日中自然の中を駆け巡る元気な少年である。
それら家族の面々も、フラハティが現地で見つけ出した地元住民一家が扮(ふん)している。
物語はかなりフィクショナルに構成されている。家族の面々の紹介、食糧探しの1日の行動がカメラに収められる。これらの行動すべて、フラハティの民俗学的調査に裏打ちされ、あたかも現在(1923年ころ)の姿のようで、誰も再現とは思わない。



食糧調達

岸を洗う大波

 一家やモアナの婚約者ファアンガセたちの、森の中のヤシの葉集め、そしてヤシの木が堂々と生い茂る海岸とサンゴ礁に囲まれた海での日々の労働が描かれる。自然の恵みに依拠した楽園の生活だ。南国の熱い太陽の下、彼らは喜びあふれる表情で労働にいそしむ。その住民たちの素朴な善良さに、フラハティは引かれたに違いない。
主食のタロ芋掘り、それを包むヤシの大きな葉、岩場でのヤシガニ、海中の大海亀の捕獲、樹皮布を薄く伸ばし、一枚の布とし、スカート地を作る。この製作過程に、フラハティは民俗学的関心をそそられたのであろう。昔のままの生活ぶりで、機械文明の逆である。超ローテクの良さを余すところなく『モアナ』は見せてくれる。
そして、向精神物質を含む、カヴァ酒も用意され、結婚式へと物語はなだれ込む。若者モアナは成人男子の象徴とされる腰部分の入れ墨をし、晴れて一人前の男として嫁を貰う。外では、腰ミノに刀を持つ多勢の若者たちの逞(たくま)しさあふれる踊りが、祭りを盛り上げる。



フラハティの憧れ



 フラハティは、第1回作品『極北のナヌーク』(1922年)で長編デビューした。極北を舞台とした第1回作品とは逆に、2作目は南国を選んでいる。ここには、彼自身の民俗人類学者としての一面が強くにじみ出ている。ドキュメンタリー映画が踏み込まなかった世界に果敢に足を踏み込み、作品の特徴としている。
肝心の製作費だが、そのエキゾチックな魅力を前面に押し出し、映画会社パラマウントから資金の引き出しに成功したと推測できる。彼は、ハリウッドが喜びそうな企画(『モアナ』の場合は南国での若い2人のラヴロマンス)を持ち込み、驚くばかりの説得力を発揮したように思える。映画監督が自分の企画の実現のために、相手が飛びつきそうなエサを提示する手法だ。
すべては自然に対する彼の畏敬(いけい)の念と、強い好奇心から発している。そして、本作でフラハティの作家性が披歴されている。






(文中敬称略)

《了》

9月15日から岩波ホールでロードショー

映像新聞2018年9月10日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家