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『教誨師(きょうかいし)』
日本における死刑制度の実情
牧師と6人の囚人との対話で構成

 わが国にいまだ存続する死刑制度を、教誨師(きょうかいし)の目を通し語る作品が『教誨師』(2018年/佐向大監督・脚本、114分)である。欧州では既に多くの国で死刑は廃止され、お隣の韓国でも死刑制度はあるが、執行停止と実質廃止の方向へ向かっている。世界的な廃止傾向の流れの中での、日本の死刑制度に対する実情紹介の意味が本作にはある。

 
作中で死刑についての是非は、直接には論じられていない。死刑制度があり、彼らを送り出す教誨師と、国家による死を不本意ながら受け入れざるを得ない死刑囚との葛藤が作品の主潮である。 そこには、声高に死刑反対を唱えるのではなく、作り手は、受け入れざるを得ない人々の人間としての姿に焦点を当てている。それは、6人の死刑囚が教誨師、佐伯保(大杉漣)との、時に激しく火花を散らすやり取りの対話だ。

佐伯保教誨師 (C)「教誨師」members ※以下同様


6人の死刑囚

 佐伯牧師が対話を交わす6人の死刑囚は、次のとおりである。
1) 鈴木貴裕(古舘寛治)−「心を開かない無口な男」
2) 吉田睦夫(光石研)−「気のいいヤクザの組長」
3) 進藤正一(通称正一)(五頭岳夫)−「お人好しのホームレス」
4) 野口今日子(烏丸せつ子)−「おしゃべりな関西の中年女」
5) 小川一(小川登)−「家族思いで気の弱い父親」
6) 高宮真司(玉置玲央)−「自己中心的な若者」

  
鈴木貴裕(無口の男)

吉田睦夫(ヤクザの組長)

進藤正一(ホームレス)

野口今日子(おしゃべり中年女性)

小川一(家族思いの男)

高宮真司(自己中心男)


犯した罪

 個々の人間としての姿を浮彫りに
本作では、6人の死刑囚が犯した罪状の具体的説明を意図的に省いている。説明されずとも大体の内容は把握できるが、作り手はその部分に触れず、個々の死刑囚の人間性を浮彫りにする手法だ。ただし、家族殺しと思われる小川一の部分は、録音が不明りょうで聞きづらく、全容がはっきりしない。
彼ら全員、普通の人間である、その一面を取り上げている。彼らの犯した罪は、どこかで道を誤り、ちょっとしたボタンの掛け違いによる結果である。この点が本作では強調されている。



大杉漣について

 脇役を中心に400本の作品に顔を出す大杉は、残念ながら今年2月21日に66歳で死去した。日本映画は2つあり、大杉漣の出ている作品とその他とする、笑い話もあるほど出演作品が多く、脇役よりはむしろ準主役に近い存在である。
幅広い役柄、明りょうな台詞(せりふ)回し、暴力とは一定距離を保つ彼の知性、誠実さ、温かみを持ち、そして何よりも、彼の俳優としての品の良さがある。本作は彼の最後の主演作品となった。
役のオファを受けた時、彼は大変乗り気で、プロデューサーも兼ねるほどであった。彼の役柄の幅広さは、6人の死刑囚との対話からもうかがえる。


教誨師とは

 受刑者に対し道徳心の育成、心の救済に務め、わが国では主に諸宗教の聖職者がその任に当たる。時には、本作のラスト近くで描かれている、刑の執行にも立ち会わねばならない。もちろん無報酬である。
本作の佐伯牧師も月2回死刑囚と対話をし、死ぬことがわかっている囚人を、平穏な気持ちで神の元へ送り出す役割を担う。もし、筆者がこの役目ならば、「頑張れよ」の言葉はかけられず、一体何を語り掛けたらよいのだろうか。


無言の死刑囚

 冒頭は、全く無言の鈴木貴裕。困り果てた佐伯教誨師(以下、佐伯)は「最近読んだ本は」と尋ねるが反応すら拒否。ではなぜ、佐伯の教誨を受けるのであろうか。ここが、佐伯の苦心のしどころであり、改心せず教えを受け入れない様子が見て取れる。
教誨室は大きな部屋に机が1卓、死刑囚と教誨師は向き合い、隅には椅子に掛けた刑務官が、何も言わずに控えている。カメラワークは、会話ごとの2人の切り返しの連続で単純。交互に2人が写るだけで変化に乏しく、会話のみが画面に弾みをつける。台詞量は多く、役者泣かせの脚本である。


歌う組長

 無言の鈴木の後、歌声が突然聞こえる。音楽のズリ上りだ。1つの場面が終われば、間合いを置かず次が入り、それが全編続く。突然の歌声の後に歌の主であるヤクザの組長、吉田の讃美歌の熱唱が続く。前回の面会時に佐伯から教わったのだろう、ひどくご機嫌で歌う。
彼の犯した罪は全く分からぬが、明るく、世話好きな性格の吉田は、佐伯に向かい「稼ぎはいくらか」と聞き、「何なら組で世話してやる」と大言壮語する。あわてて、丁寧に固辞する佐伯の様子がおかしい。
吉田の無類の明るさ、元来、当人の気の良さもさることながら、迫り来る執行前、無理しての陽気な振る舞いとも推測できる。


頼りないホームレス

 佐伯の教えの勧めを受け入れるのは、ホームレスの老人、進藤正一である。佐伯は対話者を名字で呼ぶが、例外的に進藤に対しては「正一さん」と語り掛ける。人懐っこく、とても重罪を犯した人間に見えない正一に、佐伯は聖書を読むことを勧めるが気の乗らぬ様子。おかしいと思い尋ねると、彼は文盲(もんもう)であった。それが原因で友人にだまされ借金の連帯保証人となり、負債を抱える。
しかし、正一は文盲であることをさして気にせず、「俺でも自分の名前くらいは書ける」と得意気である。佐伯は字を教えることを彼に提案すると喜んで乗り、何とか平仮名をマスターする。
やがて正一は、キリスト教徒になるための洗礼を希望するようになる。それに応えて佐伯は洗礼をし、正一は神の子となる。この洗礼の時、正一は佐伯に紙切れを渡す。正一お気に入りの女性の水着姿のグラビアの一片の裏に走り書きで、「あなた方のうち、誰が私を攻め得るのか」と記し、彼自身、人はすべて罪人であるとのイエスの言葉に疑問を挟む。


優生思想

 賢い人間は生きる権利を持つが、劣等な人間には生きる資格はないと言い放つ、優生思想の持主、高宮真司は大量殺人犯である。彼は佐伯に対し、終始、挑発的態度をとり続ける。そして殺人が悪ならば、なぜ国家が人を殺す権利を持つのかと、「死刑制度」そのものへの矛盾をつく。
死刑制度の一番の弱みであり、この論理により、世界の大部分は死刑制度を廃止した。現在は、厳罰よりも更生に重点を置くのが世界の流れである。
いよいよ刑の執行となり、佐伯は教誨師として立ち会う。今までの強気一辺倒だった高宮は、死の恐怖にあらがえず、自力でイスから立てない。
外国でも、重罪を犯して長期刑を言い渡されたフランスの若い女性は、一切謝罪を拒否し、服役したケースがある。この場合は、意図して自分を保つために強気を押し通したのであった。高宮と似ているが、最後に彼は死の恐怖に勝てなかった。



自身の過去

 佐伯は、高宮に話させるために、自身の入信の動機を語る。少年時代、母親のことを悪く言われ激高した兄が、家族を捨てた実父を殺し、後の少年院で自殺した。その悲惨な出来事と、伯父(おじ)が牧師であったこともあり、入信した経緯を説明する。
人から理解されることを拒否し、自己肯定の青年を何とか説得しようとする佐伯の捨て身の告白だが、真意は届かなかった。そこで、神々うんぬんは言わず、彼の傍(そば)にいることが自分の責務と考えるに至る。
本作で言わんとすることは、各人が異なる神の受け取り方をし、それは自然な行為としている。そして、死刑囚も普通の人間であることを説いている。そのため、各人の犯罪の詳細、死刑制度への批判は意図的に避けたのであろう。




(文中敬称略)

《了》

10月6日(土)より、有楽町スバル座、池袋シネマ・ロサほかにて全国順次公開

映像新聞2018年9月17日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家