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『帰れない二人』
男女2人の17年間にわたる愛の物語
変化する社会の中での生き様描く

 中国映画界でトップクラスの監督の1人であるジャ・ジャンクーの新作『帰れない二人』(2018年、135分、中国=フランス/原題『江湖儿女』)が公開される。総移動距離7700`b、登場都市3カ所と壮大なスケールで、17年に及ぶ愛の物語が展開する。そこには、古い中国と新しく変わり行く中国が刻み込まれ、さまざまな人々の生き様が写し出される。第71回カンヌ国際映画祭(2018年)のコンペ部門出品作品である。

チャオ(左)、ビン(右) 
(C)2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved ※以下同様

三峡ダム発着場

久し振りの2人の再会

山峡ダムのチャオ

ピストルを習うチャオ

ディスコで

車椅子のビン

1人帰るチャオ

男から金を撒き上げるチャオ

登場人物

 登場人物は男女2人がメインで、男性はビン(リャオ・ファン)、女性はチャオ(チャオ・タオ)である。チャオ・タオはジャ・ジャンク―のミューズで、彼のほとんどの作品に出演している。彼ら2人は「江湖」の人間、日本風に言えば渡世人社会の人たちだ。ビンはその親分格、チャオは彼の愛人の間柄である。
中国版渡世人社会とは、はっきりと説明し難いが、堅気とは言い難く、不動産の地上げの手伝い、盛り場のまとめ役のようで、時には仲間内の抗争で殺人を犯す一団である。彼らをヤクザ集団と言ってもよいだろう。
国力が米国に次ぐ現代の中国では、さまざまな利権が動き、それに従いカネもついて歩くのは当然で、都市の必要悪ともいえる存在だ。  
  


舞台となる3都市

 中国の壮大なスケールで展開
第1の舞台は、山西省の大同(ダートン)、北京の西方の地方都市で観光が売り物。北京から車で4時間半の距離にある。
大同に次ぐ第2の舞台は、ダム建設で村ごと消えてしまう長江の三峡ダム地区。そして第3の舞台は新疆(シンジャン=北部・国境地帯、ウィグル自治区の中心たる大都市。一帯は石油と天然ガスの埋蔵量が豊富。職を求めて多くの人が集まる地区)である。
広い中国の中から3都市を選び、2人の男女の生き方が地域により変わる様は、うまいところに目をつけている。物語は実質的に大同と三峡地区で展開される。新疆は、会話では頻繁に出てくるが2人は行かずじまいの地となる。



大同から山峡へ

 
大同では、ヤクザの親分然と構えているビンが、オートバイのチンピラ一味に狙われ、危うく命を落とすところであった。ここで連れのチャオが、ビンから習いたての拳銃で空砲を撃ち、一味を退散させる。
当然、2人は警察に連行され、取り調べを受ける。問題は拳銃の出所であり、チャオは自分のものと言い張り、ビンをかばう。最終的には、チャオは懲役5年、本当の持主ビンは1年と、チャオが罪を被る羽目となる。
刑務所行きで第1の土地大同との縁は切れる。土地ごとの特徴と行動を結びつける手法である。第2の土地は三峡ダムである。
誰の迎えもなく出所するチャオ、期待したビンの姿はない。その上、船の同室の女性から財布を盗まれ無一文。取りあえず盛り場へ出る。空腹に耐えきれず、他人の結婚式に親戚と称して列席、ご馳走をガツガツ食べ、空腹を満たす。
大同時代はビンやその子分たちに囲まれ、女王然と振る舞っていたが、今や、若くない無一文のおばさんに成り下がってしまう。この試練で、地頭が良く、度胸満点の彼女はひと皮むけ、女渡世人となり、ビンを探し回る。
昔なじみのヤクザ仲間は、上辺は礼儀正しいが、腹の中はビンを厄介者と見ている。やっと探し当てたビンは三峡ダムで働き、同僚だったヤクザの妹と昵懇(じっこん)の仲となっている。追っかけた愛人を奪われ、しかも、文無しときて、生きる術を失う。
ここでへこたれるタマではないチャオである。持ち前の度胸で、妹の妊娠を口実に、彼女が流産したと嘘をつき、スネに傷を持つ裕福な男たちから金を巻き上げる。カネ、カネの一端(いっぱし)の女ヤクザになった彼女は、男顔負けの汚い渡世人となる。



ビンとの再会

 やっと再会したビンとチャオ。チャオは「なぜ5年の間、面会に来なかったのか」となじる。それに応えてビンも「俺の出所の時も子分たちは誰も迎えに来ない」と金と権力を失った男の本音がこぼれる。罪を被ったチャオに対し、ひと言のねぎらいの言葉もない。男のずるさであり、落ちる者を徹底的に叩くヤクザ一流の排除の論理である。
ビンを演じるリャオ・ファンは、どこにでもいそうな非イケメン系の中年おやじ、人生の年輪が立ち居振る舞いに現われ、その存在感は並みではない。
本来なら脇の役者だが、このような普通の感じの男性の持つしたたかな存在感は、中国映画独特のものだ。チャオもしかりであり、美人タイプではなく、メス独特の粘っこさと、一途さを出せる女優で、ジャ・ジャンク―監督が手離さない理由が理解できる。



2人の胸の内

 「一緒に帰ろう」と誘うチャオに対し、ビンは煮え切らない。素直に彼女の優しさに乗れない、愚かな男のプライドである。その上、ヤクザ同士の大立ち回りによるものか、ビンは車椅子。動けない自身の体を思いやれば、チャオの誘いに乗るしか選択肢はないはずだが―。
チャオは、1人三峡を離れる。旅先の劇場では歌謡ショーが公演されている。中国で大ヒットした『愛があればやり直せるのか』の歌詞が流れ、彼女の胸を締め付け、思わず涙して一緒に口ずさむ。ビンへの愛憎がなせる一幕だ。
監督の、場面ごとの歌謡曲のはめ込みが実にうまい。冒頭、2人の気持ちを表わすディスコでの『YMCA』、そして仲間の葬式での『CHA CHA CHA』は2人の高揚期の象徴であり、ラストの『愛があればやり直せるのか』の破局を表わす歌と、大衆音楽をぶつけている。
この辺りのセンス、昔流に言えば、乙女の紅涙を絞り取ろうとするジャ・ジャンク―監督の魂胆、「よくやるなあ」の一語である。この歌の試み、内容としっかり結びついているところに作品の良さがある。



時代と2人

 2人の男女の17年間にわたる愛の物語、主人公2人は、いまだに互いを思う気持ちを残しながら、メロドラマ風にいえば、「愛しながらの別れ」となる。
たくましいチャオは、いつの間にか雀荘の女将となり、身障者のビンは「なぜ俺を引き取った」と尋ねる。チャオは「渡世に義理はつきものだから」と受け流す。時代とともに生きるチャオ、時代から脱落するビン、この2人の相反する人生模様は、悲しくも必然であり、愛の最終的な姿が現れる。
2001年の三峡ダム本着工、北京五輪の開催決定、四川大地震、北京五輪開催、三峡ダムの完成、上海万博開催、2005年の北京冬季五輪決定と時代は変化する。
チャオの手助けでリハビリに成功、歩けるようになったビンは2018年にチャオの元を去るが、その前に紙を焼き、そこをまたぎ、厄落としをする。中国の古い習慣の1つが顔を出す。
そして2人の物語の終焉(しゅうえん)。この長い物語を時系列で押すジャ・ジャンク―監督の剛腕。そして背景としての中国社会の変化。変わるもの、変わらぬものを併せ描き、中国の将来の生きる姿を予見している。
そこには、社会の中で生きる人間自身の強さ、弱さが的確に指し示されている。その上、チャオの持つ"メス"としてのしたたかさは、中国の未来は女性の双肩にかかるとする、作り手の視点が見受けられる。





(文中敬称略)

《了》

9月6日からBunkamuraル・シネマ、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

映像新聞2019年9月2日掲載号より転載

中川洋吉・映画評論家