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『レディ・マエストロ』
女性初となるオーケストラ指揮者の半生
苦難を乗り越え夢の実現へ

 ここ数年、女性の権利獲得をテーマとする作品が確実に増えてきている。これまでの男性中心社会を変革しようとする組織的な動きである一方、女性の社会進出で男性社会に対し風穴をあける、個別的な闘いもある。その個人の奮闘を取り上げるのが、クラシック音楽の世界で女性初となるオーケストラの指揮者、アントニア・ブリコ(1902-89年 )の実話を元にした『レディ・マエストロ』(2018年/マリア・ペーテルス監督、オランダ、139分、原題「Lady Maestro」)だ。

アントニア・ブリコ(旧名ウィリー)  (C)Shooting Star Filmcompany - 2018 ※以下同様

コンサート・ホール正面のアントニア

フランク(右)とアントニア

ニューヨーク市内のアントニア

同市にて

フランク邸の晩餐会

同上、指揮者メンデルベルグ

女性オケ

心を寄せ合うアントニア(左)とフランク(右)

コンサート会場の案内係

 舞台はニューヨーク、時代は1926年。主人公はホールの案内係の若い女性ウィリー(養子縁組で変えられた姓名の愛称、後に本名アントニア・ブリコに戻る)。彼女はオランダからの移民で、社会的には低所得階級に属している。この彼女の半生を通し、女性の指揮者への道の困難さが「これでもか、これでもか」と描かれている。
演じるのは、オランダ人女優クリスタン・デ・ブラーン。音大出身の彼女は、主として演劇やミュージカル分野で活躍する。しかし、わが国での知名度はゼロに等しく、今後の注目株といったところ。  
  


彼女の夢

 ウィリーの夢は指揮者になること。しかし、どのようにしたら指揮者になれるかの具体的イメージは、全く頭に浮かばない。そして、生活のためコンサート・ホールの案内係を職とする。その場が音楽に一番近いと判断したのであろう。
本作は、出足から意表を突かれる。開演のベルが鳴り、場内が静まり返る。すると、ウィリーは客席通路の最前列にイスを持ち込み、ひざに譜面を置く。彼女の存在に気付いた当時の著名な指揮者メンゲルベルグ(オランダ人)も驚きの表情を隠せない。しかし、大指揮者の一挙手一投足を間近に見たい彼女の考えられぬ行動に、観客は驚かされる。
その後、劇場オーナーの息子フランク(ベンジャミン・ウェインライト/英国人、『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』〈2016年〉)により外へ放り出されクビとなる。冒頭から彼女の指揮者への強い思いを押し出し、ハイライトシーンを早々とぶつける演出手法は見せドコロだ。



伝手を求めて

 
貧しい家庭出身のウィリーにとり、音楽的環境は"無"で、ボロピアノに毛布を掛け、外部への騒音漏れを防いだほどだ。彼女と音楽の結びつきは、5歳の時の教会のオルガン演奏であった。それ以来、音楽一筋の人生となる。
父は心優しい道路作業員、母は性格の強いガミガミタイプ。仕事から戻る娘に真っ先に給料を出させるような人物で、女性同士、全くそりが合わない。何の伝手(つて)もなく、公園の無料コンサートの指揮者ゴールドスミスを頼り、気乗り薄な彼からレッスンを受けることに漕ぎつける。音楽の世界への第一歩だが、とても両親からの援助は期待できない。
ここで、いかにも作り話めいたエピソードが挟み込まれる。街を歩いていると、LGBT(セクシュアルマイノリティ)風の1人の紳士から「仕事を探しているのか」と声を掛けられる。彼、ロビン(スコット・ターナー・スコフィールド、米国で演劇人、脚本、プロデューサーとしても活躍、早い時期からLGBTを公言している)は、「ピアニストのポストが1つある」と切り出す。
あまりの偶然に驚くウィリーを演奏会場へと案内する。そこは、いわゆる歌や軽音楽で一杯飲む、キャバレーだった。ロビンは楽団のピアニストだが、ベースを演奏したく、ピアノ演奏としてウィリーに白羽の矢を立てたのである。
即席のキャバレーのピアニスト、ウィリーは戸惑うが、せっかくの稼ぎ口を失うわけにいかず、楽団の一員となり、レッスン料を得ることになる。ロビンの無私の親切、LGBT独特の優しさで、素直に見知らぬ女性に手を差し伸べる話を、意図的に脚本に盛り込んだと推測できる。誰も自ら、訳の分からない音楽一筋の女性を相手にするはずはなく、作品に彩りを付けるための創作であろう。



フランクとの親交と勘当

 ある時、市の公演での演奏指揮者のゴールドスミスに無理やり誘われ、郊外へ行く機会があった。初めはプライベートな演奏会と思いきや、豪華なシャトーでの晩餐会だった。このような上流社会の招待は初めてであり、ウィリーは穴にも入りたい気持ちになる。
列席者の中に、冒頭で登場した著名な指揮者メンデルベルグがおり、ウィリーの破天荒な行動を覚えていた。初めて言葉を交わし、彼女は聞かれるままに「指揮者志望」と答えると、会場は失笑の渦となり、ウィリーは大いに傷つく。
この晩餐会の主催者は、ニューヨークのコンサート・ホールのオーナーで、その息子が彼女を劇場から放り出したフランクであり、久方ぶりの対面となる。上流階級の典型的な美男子である(個性派が多い欧米の男優の中で、彼ほどの美男は珍しい)。ウィリーの信念に打たれた彼は、次第に彼女に心を寄せ、食後のダンスでは唇を合わすほどになった。



出生の秘密

 コンサート・ホールを辞め、レッスン料のためにキャバレーのバンドに入ったウィリーは、母に黙って職を変え、おまけに、わずかな貯金も見つかり、彼女と口論となる。たまりかねて家を出たウィリーに対し「お前はもらい子(養子)」と母親が口走る。
さらに、追い打ちをかけるように、持ち物は窓から放り出され、大事なピアノは調理のまき代りとなる。おそらく、この養子縁組は労働力と子供からの収入を当てにした行為であろう。実母アグネスは既に他界、母の妹によれば、最後まで娘を探したとのこと。
不幸の連鎖が続くが、良いこともある。ロビンが宿なしの彼女に自宅の一室を提供し、音楽界に顔が効くフランクは、彼女の指揮者デビューの手助けを惜しまなかった。



米国からオランダへ

 ウィリーは、実母の死を知ってから、本名の名前である「アントニア・ブリコ」に戻る。この時期から、楽壇でも非常に珍しい女性指揮者として少しずつ知られるようになる。
ベルリンに良い指揮者が居ることを知り、ここでも押しの一手で彼の弟子となる。この彼がカール・ムック(1859−1940年)で、ワーグナーの楽劇を上演するバイロイト音楽祭に30年間活躍したドイツの巨匠である。
彼は、彼女の才能を見込み、熱心に指導にあたる。その甲斐あって、1930年にベルリン・フィルで念願の指揮者デビューを果たす。また、38年には女性として初めてニューヨーク・フィルを指揮し大成功を収める。
33年には、男性で占められたオケ(オーケストラ)に対抗し、女性だけのオケの指揮台に立つアントニアではあるが、やはりガラスの天井に拒まれ、一流オケの音楽監督や、常任指揮者のポストには手が届かなかった。
熱血的な彼女の努力をもってしても、音楽の世界は、いまだに男性中心であることには変わりない。晩年は、米国・デンバーに居を移し、デンバー・フィルを率いて活躍した。
女性の権利運動の一環として、アントニアの孤立無援の闘いを描く本作『レディ・マエストラ』は、女性の夢の実現が大きなテーマとなっている。登場する音楽も、ベートーベン、マーラー、バッハ、メンデルスゾーンなど、珠玉の名作が濃い密度で耳に迫り、音楽モノとしての心地良さを味わせてくれる。
主役、アントニア役のクリスタン・デ・ブラーンのあごのえらが張った、いかにも意志が強そうな容貌も作品にマッチしている。





(文中敬称略)

《了》

9月20日(金)、Bunkamuraル・シネマほか全国公開

映像新聞2019年9月9日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家