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『帰ってきたムッソリーニ』
現代に蘇るイタリア・ファシズム支配者
すべて茶化して軽くみる大衆
喜劇の中にある隠れたメッセージ

 発想が面白く、伝えるべきことをきちんと述べる『帰ってきたムッソリーニ』(2018年/ルカ・ミニエーロ監督、イタリア、96分)が公開される。ナチスのヒトラーと並び、同時代にファシズム(結束主義)を提唱した、ベニート・ムッソリーニ(1889−1945年)が、もしも現代に現われたら、人々はどのような反応を示すであろうか。昔の亡霊の再登場が、決して荒唐無稽(むけい)な絵空事ではないことが、隠れたメッセージとして読み取れる。

若い女性に囲まれるムッソリーニ
 (C)2017 INDIANA PRODUCTION S.P.A., 3 MARYS ENTERTAINMENT S.R.L. ※以下同様

インタビュー中のムッソリーニ(右)

ミニエ―ロ監督

旅立前の一杯、アンドレア(左)とムッソリーニ

テレビ出演

演説するムッソリーニ

旧邸宅前のムッソリーニ

TV局内で対立する新旧局長

TV局新局長と

ファシズム同盟

 ヒトラーは、600万人(うちユダヤ人が400万人)を殺したことで、その悪名を天下に轟(とどろ)かせている。彼は、第二次世界大戦以前から、ヨーロッパ各地でユダヤ人が経済的実権を握っていることに目をつけ、彼らの地位・財産を奪うことを考え、ユダヤ人を強制収容所へと連行したことは、紛れもない事実である。
そして、その大義として、アーリアン人種優先のスローガンの下、ユダヤ人をこの世から消す民族浄化を唱え、この前代未聞の虐殺の理由付けとした。  
  


死せるムッソリーニ

 ヒトラーと並ぶムッソリーニだが、彼は、特にユダヤ人を目の敵にしなかったと言われている。むしろ、ヒトラーの後について、ファシズムの一員と自らを位置付けたと考えられる。
しかし、彼のイタリア・ファシズム支配は容認されるものではない。そのファシストが、戦後70余年後に姿を現したらイタリア人はどのように反応するのか、そこが本作の焦点である。
多くの人を殺したファシズムを知る人、知らない人、今は大したものではないとする人、それを否定する人など、現代人の反応が作品の中心となる。その各人の反応を、ドキュメンタリーを交えてのインタビュー構成としている。
ムッソリーニは、1945年4月28日に大衆から撲殺され、人々の前で、愛人のクララ・ペタッチ(愛称クラレッタ)とともに足からつるされた。絶対に生存説が起き得ないための工作だ。



政治的土壌

 
ムッソリーニが現代に蘇(よみが)える下地として、20世紀前半のイタリア政情がある。70余年の間に政権が63回変わった同国は、政党の少数乱立で知られ、いわゆるカリスマ的な大人物が、間隙を抜け世に出ることを許す、政治的風土が存在していた。
そこをムッソリーニは巧みに突いたのである。元来、社会党員で左派の人間とされた彼は、徐々に右傾し、ファシズム国家の頂点に上りつめた。
彼は、社会党員でありながら主戦論に傾き、除名処分となる。そのころからファシズム体質があらわになったムッソリーニは、ファシスト党のトップとなり、祖国をファシズム色に塗り上げる。



70余年後に出現

 ある日、ハゲの肥満男が、突然ローマ市内に現われる。服装はファシズム時代と全く同じで、彼は周囲の好奇心にさらされる。その光景を1人の売れない映像作家、アンドレア・カナレッティ(フランク・マターノ)がカメラに収める。ここから物語が始まる。
彼は一大スクープとばかり、このネタをテレビ局に持ち込む。テレビ局では編集局長の座を巡る内紛で、収拾のつかない状態。この混乱に乗じてムッソリーニ企画は通り、ワイドショーとして放映化される。
この辺り、扇情主義、場当たり的なテレビ・メディアの本質が見受けられる。スキャンダリズム・メディアと言われる、大衆迎合的プログラムによる視聴者受け路線である。



「今浦島」のムッソリーニ

 ムッソリーニ・ドキュメンタリーの手始めとして、映像作家・アンドレアの出番となる。ムッソリーニを各地に連れ回し、人の集まる各地の広場でのインタビューを試みる。
若い女性は、アイドル登場とばかり、キャー、キャー言いながらの写メール。多分、彼女たちにとっては、テレビに出ていた変わったオジさんぐらいの認識であろう。若い女性たちの何人が、ムッソリーニを知っているかは疑問であるが。ちょうど何も知らずに、何かもらえそうだと列をなす心理と似通っている。
当のムッソリーニは「今浦島」で、得意満面だが、自動車に地雷除け装置が付いていないことや、町の洗濯屋がパンツ洗いを拒否する(ホテル住まいの金持ち独身男の中には、背広、シャツ、下着すべてを洗濯屋に出す者もおり、70余年前のムッソリーニもその類であろう)ことなどに腹を立て、時代の歯車と合わない。この辺りの感覚のズレは分かりやすい。



さまざまな回答

 アンドレアとムッソリーニは、旅で多くの階層の人々とのインタビューを試みる。まずは、先述した自撮りの女子高校生、芸能ワイドショーのノリノリのディレクター、そして一般市民の声を拾う。
「独裁政治も度が過ぎねば許容」(一般男性)、「移民は殺すべし」(中年女性)、「移民は海に沈めろ」(農民)…。
これらの市民の声は、昔と変わらない。一般市民の保守性、「今が良ければOK、自分らの環境に異物の侵入を好まない」というイタリア人の本音がのぞく。





テレビ放映

 1度の放映の成功で味をしめたTV局(おそらく公共放送のRAI)は、「柳の下の2匹目のドジョウ」狙いで、再度、大々的なワイド特番を組む。編成の担当者は、面白いネタであれば何でも飛びつく、軽薄な人間たち。こうしたTV局の連中が決定権を持つ現状を、まざまざと思い起こさせる。
ファシズムについてより、今浦島のムッソリーニに対する興味本位の意識が先立つ。
テレビショーのムッソリーニは、ファシズム帝国の建設を力説。ギャグとしかとらえていない視聴者はヤンヤの喝采。まともな思考が顧みられず、すべて茶化して物事を軽く見る一般大衆の姿が、露骨に目の前で展開される。





真っ当な老女の一言

 本作の圧巻はラスト。映像作家、アンドレア宅に同居する認知症のレアおばあちゃんである。ボケ始めの彼女、急に正気に戻り、家に連れてこられたムッソリーニに対し面罵する場だ。
彼女はユダヤ人、アウシュヴィッツ強制収容所の生き残りである。その彼女は、彼の正体を見抜き、最後の抗議をするために今まで生きてきたのだ。
老女の話を聞き不審に思ったアンドレアは、ビデオを再検証し意を決し、テレビ局のスタジオで得意然と講釈を垂れている、イタリア・ファシズムの無き亡霊のスピーチをやめさせようとする。
テレビ局の観客は、これもプログラムの一部と思い面白がる。ムッソリーニを引っ張り出し、変わらぬその正体を知ることとなるアンドレアである。ここで、作り手の狙いがはっきりする。
ミニエーロ監督は、現在台頭し始めている自国のファシズムの脅威に直接触れず、同調圧力、おふざけ、無関心こそ、第2のムッソリーニの出現の危機と警告している。
笑いとドタバタの喜劇だが、「明日にでも第2のムッソリーニが登場」の可能性について語っている、硬派のイタリア喜劇である。いつものことながら、イタリアの中年俳優のうまさに感心させられる。







(文中敬称略)

《了》

9月20日から新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかでロードショー

映像新聞2019年9月16日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家