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『ひとよ』
白石和彌監督による力感あふれる新作
強烈な人間の愛憎劇が爆発
人殺しの母と子供たちとの対立

 「規格外」や「アウトロー的人間」を主人公として押し出すスタイルの、白石和彌監督による力感溢れる新作が『ひとよ』(2019年)である。本作はこれまでとは異なり、家族そのものを描き、見る者を「何もそこまで追わなくても」と思わせながら見せ切ってしまう力(りき)があり、白石ワールドが堪能できる。若手世代監督の心象風景を追う疑似芸術作品とは一線を画し、歯応え十分だ。

稲村家全員     (C)2019「ひとよ」製作委員会 ※以下同様

稲村3兄妹

稲村こはる(母)

稲村家親子

稲村こはる(左)と園子

雄二(中)

大樹(右)と園子

墓地での雄二

一家の食事風景

序章

 作品自体の全体像紹介を担うために、冒頭の登場人物などを際立たせるのは脚本の基本であり、本作は忠実にその前例を踏まえている。
冒頭、土砂降り雨の中、真夜中に1人の男が酔っているのか、大声を張り上げながらタクシーから降りてくる。その後ろ姿がロングで写される。家の中では、稲村家の3兄妹、長男・大樹(鈴木亮平)、弟・雄二(佐藤隆)、長女・園子(松岡茉優)が待っている。
大樹はレコーダーの修理、園子は人形を使ってのヘアースタイルの練習中。雄二は小型録音機で彼らの作業を実況し、兄はドライバーで人を刺し、妹ははさみで自分を刺すかもしれないと、勝手なことをしゃべる。
母親こはる(田中裕子)が外出から1人で戻ってくる。なぜか、一緒に出かけたはずの父親の姿はない。母親は「みんな聞いて。お母さんは今お父さんを轢(ひ)いたの。これからは殴られることもなく、自由に生きられるの」と話す。父親からのDV(ドメスティックバイオレンス)で、いつも顔が傷だらけの子供たちを守るために、夫を殺したのだった。
そして、「15年したら帰ってくる」と言い残し、母親は自ら刑務所行きを選ぶ。必然的に家族が崩壊し、子供たちは両親のいない15年間を送らねばならない。稲村一家の悲劇である。物語は残された3兄妹の生き方を通し、事件の影響がどのように彼ら3人に及ぼしたかの推移をたどる。  
  


兄妹のその後

 崩壊した家族であるが、一家はタクシー会社を経営しており、経済的には困らない。家業のタクシー会社は、これ以上の善人で気づかい人間はいない、こはるの甥(おい)丸井(音尾琢真)が、事件前に彼女に懇願され、社長を務めることになる。
この事件で世間の見る目は変わり、人殺し一家扱いとなり、大樹、雄二、園子それぞれの人生に影を落とす。



大樹の場合

 
長男の大樹は、生まれつきの吃音(きつおん=発音が不自由な人)、そのため対人関係が苦手だ。性格的には普通の感覚の持主で善人だが、積極的に善いことをするタイプではない。そして世間の常識をわきまえ、「母親は立てねば」との考えの持ち主である。
大樹は年ごろとなり、裕福な電器店の娘と結婚し、一女をもうける。仕事は妻の実家である電器店の専務と、絵に描いたような実直なサラリーマン。この何不自由ないはずの彼にも弱みがある。
ある日、別居中の妻が彼の事務所に怒鳴り込む。大樹は妻子とは別居し、ずっと独り暮らし。妻は1人置いて行かれ無視された気分で、娘を連れて夫に直訴に及ぶ。彼にとり家庭は体裁であり、心が落ち着く場所ではない。母親の殺人事件が、もともと閉塞的であった彼の心をますます閉ざす。



雄二の場合

 雄二は兄と違い、根は活発で行動的な性格という、白石ワールドの典型的な人物。自己中心で粗暴な彼は、事件を起こした母親を憎んでいる。事件以降、好きな小説家になる夢を絶たれ、不満がうっ積するばかりである。俗に言う、嫌な性格の人物となり、人間の善意を全く信じようとしない。
一度は東京で、二流のエロとゴシップ専門雑誌社に勤めるが、低俗路線に耐え切れず退社。すべての狂いの元凶は母親との思いを強くする。物語では、兄大樹と全く逆の人物像として描かれる。
監督の白石和彌は、『凶悪』(2013年)や『日本で一番悪い奴ら』(16年)の主人公と同類の、屈折し半ばヤクザな男を描くにあたり、さすが師匠である若松孝二監督の血を引いているだけある。登場する主人公たちのアクの強さを次男の雄二に負わせ、ドラマに厚みを持たせている。
人間の表面的な常識人ぶりと、その反対側にあるドロドロした悪意とコンプレックスを持つ2人の兄弟の葛藤が、物語の流れを加速させる。



園子の場合

 末っ子の園子の造型は、人間の善性と悪性、両面を直接目の当たりにし、兄たちの具体的行動の仲裁役をさせられる役どころである。事件以降、美容師の夢破れ、地方でカラオケ・スナックの従業員となり、毎晩、浴びるほど酒を飲み吐き続ける、自堕落な毎日を送っている。
しかし、積極的に異性の友人を求めたりもしない。異性たる兄たちの所業を15歳ころから見て育ったせいであろう。
身をていして、父親のDVを防いだ母親の親心。平凡に、それなりに暮らしてきた家族が意に反し悪い方へと転がるきっかけが、脚本の重要点となる。そこがドラマ性の高みであり、作り手の狙いでもある。清く美しく、皆仲良くの世界の逆を暴いて見せる意図に満ちあふれている。
原作は劇作家の桑原裕子。世間に挑戦する屈折した人物を配置し、人間関係のズレの拡大を強調する。うまい試みで、発想の良さが冴(さ)える。また、雄二の存在は全体の"ドク"にもなり、物語にメリハリをもたせている。



母親こはるの場合

 作品で一番重要な位置を占めるのが、母親こはるの役回りであろう。一応、安定したタクシー会社の社長夫人であり、子供も立派に育て上げ、夫の並外れたDVさえなかったら、裕福な賢夫人として人生を全うできただろう。
しかし、1つの出来事が、真っすぐな糸が急によじれるきっかけとなる。事件後、彼女は「15年したら戻る」と言い残して自首し、15年後に帰宅する。こはるにとっては予定の行動である。彼女は子供たちに向かい、「自分は間違ったことはしていない。夫のDVから子供を守った。正義は自分にある」と堂々と言ってのける。その後の、各人の対応が物語の芯(しん)となる。
「自分は正義」と高らかに宣言するこはるだが、取り残された子供たちの青春は、暗い谷底に落ちる。大樹の離婚騒動、園子の美容師断念、そして小説家の夢破れた雄二の思いは、それぞれ異なる。
大樹は、母親は母親、育ててくれた恩があるとしながらも、できるだけ距離を置きたいと願う。雄二は、自分の夢の実現を阻んだのは母親と、彼女を憎む。園子も大樹のように、母親は母親、と立てる心情だ。
子供たちの反発、無視に近い態度に対し、こはるは、子供たちを救ったのは自分との態度を崩さない。この心理も理解できる。子供たちから感謝されてもおかしくないと考えるこはるは、「ありがとう」と言われたい思いが強く、この対立、終生続くと思われる。
年配のこはるにとり、ウソでも自分の正義を押し通し突っ張ることが、余生を支える唯一の生きる道であろうとも解釈できある。人間のエゴが家庭を崩壊させても、自己を曲げずに生きることをこはるは選んだのだ。
白石監督の強烈な人間の愛憎劇が爆発し、そこに作品の面白さが生まれる。しかし、後味は良いとは言えないが、彼の言わんとするところは理解できる。原作の発想のすごさも見どころだ。






(文中敬称略)

《了》

11月8日から全国ロードショー

映像新聞2019年11月4日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家