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『ペトルーニャに祝福を』
女性禁止の「幸せの十字架」を偶然手に
教会や警察を巻き込み大騒動

 わが国では珍しい、バルカン半島に位置する北マケドニアからの映画が公開される。それが『ペトルーニャに祝福を』(テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督/2019年、北マケドニア・フランス・ベルギー・クロアチア・スロヴェニア合作/マケドニア語、100分)である。1人のマケドニア女性が、男性社会の北マケドニアで悪戦苦闘する物語で、作り手の言わんとすることが的確に伝わる、女権ものだ。

 
北マケドニアと呼ばれる国家、はっきりいって日本人には遠い存在である。統計によれば、在日マケドニア人は100人にも満たない。多分、わが国とは経済的交流が極めて少ない国であろう。面積2万5000平方b、人口210万人、北欧の小島、アイスランドよりも小さい国である。
なぜ、北マケドニアとの呼称なのか。2000年前アレキサンダー大王率いるマケドニア帝国は、現在の「マケドニア」であり、かつてユーゴスラビアの一部であった。1990年にユーゴスラビアが解体、翌91年に独立し、「マケドニア」と呼ばれる。
しかし、隣国のギリシャが猛反対する。アレキサンダー大王以来の「マケドニア」は、かつての「マケドニア」の呼称が地方名としてギリシャに複数現存するためで、外交交渉により、2019年に「北マケドニア」と呼称を変えた経緯がある。北マケドニアはあっても、南マケドニアが存在しないのはこのためだ。
国内には65%のマケドニア人、25%のアルバニア人が居住し、宗教も、マケドニア人は東ヨーロッパのキリスト教であるマケドニア東方正教会教徒、アルバニア人はイスラム教徒である。
本作では、キリスト教対イスラム教の紛争は取り上げず、むしろ、保守的な正教会の内面を描いている。

警察署内のペトルーニャ(左)
 (C)Sisters and Brother Mitevski Production, Entre Chien et Loup, Vertigo, Spiritus Movens Production, Deuxieme Ligne Films, EZ Films - 2019 All rights reserv ※以下同様

聖職者たちの行進

十字架の投げ入れを待つペトルーニャ

友人(左)とペトルーニャ(右)

自宅のペトルーニャ(中央)

司祭とペトルーニャ

署内の取り調べのペトルーニャ(左)

TVリポーター

ペトルーニャ

 男性社会の国で戦う1人の女性
主人公のペトルーニャ(ゾリツァ・ヌシェヴァ)は、北マケドニア中部の首都スコピエに近い人口5万人弱の地方都市シュティプに在住する32歳の女性である。彼女はやや太めでしゃれっ気もなく、恋人もいない。学卒の彼女は、歴史学を学び、オールAの成績を収めるほどの秀才である。しかし、就職口がなく、現在はウェイトレス暮し。
北マケドニアの地方都市では、若年失業率が高く、これが国家の抱える大きな問題である。ペトルーニャは両親の家で暮らす身で、肩身の狭い思いが見て取れる。
ある日、母親が知人の伝手(つて)で仕事口の面接を取り付けてくる。また望みの薄い面接かと、気が進まないペトルーニャだが、取りあえず面接を受けに出かける。すると母親が追ってくるのが目に入り、日ごろから母親のことをうっとうしく思う彼女は、邪険に「ついて来ないで」と振り払う。母親は「面接のとき、32歳ではなく25歳と言え」とアドバイスするために娘を追ってきたのだ。 
  



面接

 指定された場所は、ずらりとミシンが並ぶ縫製工場。それを見てゲンナリの彼女だが、気を取り直し、面接担当者と会う。スケルトンの室内丸見えの事務室、ミシンを踏みながらチラチラとペトルーニャを見る女工たち。担当者は、端(はな)から若いキレイな子しか採る気がなく、彼女の職歴のなさをあげつらう。
我慢の限界とばかり席を立つ彼女。またしても面接失敗。その帰り道に事件が起こる。キリストの洗礼を祝う恒例の、1月19日の「神現祭」にちょうどぶつかる。
「神現祭」では、聖職者により川に投げ入れられる木の十字架を「最初につかみ取った者は、幸せになれる」と信じられている。半裸の青年たちが、十字架めがけ川の中に入る。
彼女も見物のつもりで川に入る。そして、偶然に十字架が彼女の前に流れ着き、それを拾う。これが騒動の発端となる。正教会では、拾えるのは男性だけとの決まりがあり、女性は蚊帳の外なのだ。
宗教上の約束事を無視する彼女の行為に、男たちは激高し十字架を取り戻そうとするが、一度手にした十字架を彼女は決して離さない。「女性が拾って、何が悪いの」という態度だ。


第2幕

 川辺は大騒動となり、彼女は警察へ連行される。ここからが第2幕で、佳境に入る。
彼女は警察で散々待たされ、やっと署長による事情聴取が始まる。この時の彼女の物おじしない応戦振りが見ものだ。彼女の、たかが十字架を拾う行為に対し、周囲は狂女扱い。「女のくせに」と憎悪丸出しの反応だ。高学歴の失業女性の彼女は、落ち着き冷静に対応する。
署長から「君が取った」と責められると、動画を見れば分かるだろうと応じる。もちろん、彼女は「自分が取って何が悪い。女性だからか」と逆に詰め寄り、署長はタジタジ。そして、急に矛先を変え、自分にも9歳の娘がいて大変かわいいと、情に訴えるが効き目なし。
最後に彼はオオカミと羊の話を持ち出す。オオカミが羊の振りをして羊を食べる話だが、その本意が意味不明。なぜ、オオカミなのか、羊なのか、唐突である。



TVレポーターの登場

 
首都スコピエから男性カメラマンを伴い、「神現祭」のルポに来た女性リポーター、スラビツァ(ラビナ・ミテフスカ、ミテフスカ監督の妹、本作のプロデューサー)は、祭りより面白いこの事件に、女性に対する不平等な社会的風潮を嗅ぎ取り、取材の軸足をペトルーニャに移す。
スラビツァは、うるさがる署長を問い詰める。「女性が十字架を取るのがなぜ問題なのか、どこに違法性があるのか」と畳み掛ける。同席の司祭は「男だけがとれる、と子供に教えている」と答える。予期せぬ事件に司祭は当惑気味。何とか切り抜けようと子供まで持ち出す。
騒ぎを大きくせず、何とか収めようとする署長は、リポーターのスラビツァに、「君の仕事はイカレタ女を追うことか」と愚問を投げ掛ける。それに対し、一本気で気の強い彼女は「怒り狂った群衆がペトルーニャを追っているじゃないか」と逆襲、一歩も引かない。
2人の女性、ペトルーニャとスラビツァは、不当な女性差別に対し敢然と立ち向かう。



母親と娘

 やっとの思いで警察から解放されたペトルーニャは、群衆にバケツの水を浴びせられ、ずぶ濡れ状態での帰宅。母親はテレビのニュースでことの次第を既に知り「罰当たりのバケモノ!近所から何を言われるか分ったものでない」と、娘を非難。娘も反撃に出て、母親に蹴りを入れ言い放つ。「十字架は私のもの!絶対に渡さない」とタンカを切る。
この母娘の口論、いわば新旧の考え方の違いそのものである。母親は男性優位社会に順応することを願い、娘はその枠を何とか破ろうとする対立である。ここにペトルーニャの視点が全編に貫かれている。



十字架は

 ラストは、張り詰めた糸を緩める方向へと動く。いかに物語を終結させるかが、脚本の練りにあり、演出の手腕なのだ。ここの部分、実にうまく抑えている。
最終的にペトルーニャは、騒ぎの発端である十字架を司祭に返す。実に晴れ晴れとした表情で。そこにはもう、ただの板切れの十字架に振り回されるのは御免の意志が込められている。そして「幸せになる権利は、女性の私にもある。なのになぜ」と問い始める。
女性差別を通して、彼女は既に、世の中の不正義、不公平との闘いに足を踏み入れたのである。つまり戦闘モードだ。ここに、映画『ペトルーニャに祝福』が伝えるメッセージがある。そして見る側は、彼女の側に立ちたいと思うであろう。
本作、2014年の実話から想を得ている。その実在の若い女性は、現在ロンドンで暮らしているという。この事件で、彼女は因襲的な町、国から出る機会を得たのであった。







(文中敬称略)

《了》

「ペトルーニャに祝福を」は、4月15日から岩波ホールのほか、全国で順次公開の予定だったが、新型コロナウィルス感染防止のため、2021年初夏に延期した。

映像新聞2020年4月20日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家