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『ルース・エドガー』
米国社会の奥に潜む人間の在り方や矛盾
移民の黒人少年を通して考察
サスペンスフルなストーリー展開

 2019年、米国独立映画系のサンダンス映画祭で注目された『ルース・エドガー』(ジュリアス・オナー監督・製作・共同監督/英語、110分)は、米国社会、特に人種間の深層意識をえぐり出す視点に立つ、強力な磁気を持つ作品である。人々が内部で意識しながら、表立って意見表明をためらう米国の社会構造の一部に触れる問題を、1人の黒人少年「ルース・エドガー」を通して考察する。

ルース(中央)    (C)2018 DFG PICTURES INC. ALL RIGHTS RESERVED ※以下同様

ルース

討論会場のエイミー夫妻

教室のウィルソン(左)とルース(右)

討論会のルース

家族の食卓

陸上競技部のルース(右から2人目)

ウィルソン

自宅のエイミー

「ルース・エドガー」とは

 17歳のヴァージニア州アーリントン(ワシントンDC近く)在住の黒人少年「ルース・エドガー」(ケルヴィン・ハリソンJR)が本作の主人公である。冒頭、多勢の聴衆の前で話す、彼の後ろ姿が写される。後ろ姿の人物こそルース本人であり、討論に磨きをかける「討論部」の代表でもある。全校を代表しスピーチをする彼は、学力優秀、スポーツ万能、誰からも慕われる人柄と申し分なく、学校の期待の星なのだ。
しかし彼の出自は、苦難に満ち、さまざまな困難を克服の後、現在のルースがある。本作ではアフリカ生まれ、後に米国移民と設定されている。彼はエリトリア生まれ、出国当時は内戦中、彼自身、少年兵であった。多くの同世代の少年、少女たちがおもちゃやゲームに興じる間、彼は銃を手にしていた。
ルースは7歳の時に米国に渡り、エドガー家の養子となる。この養父母であるエイミー(ナオミ・ワッツ)とピーター(ティム・ロス)の夫妻、時に母親のエイミーは、本物の母親以上にルースに愛情を注ぎ、自ら黒人少年の理解者たらんとしている。彼は、学校では優等生、家庭では両親の愛情を一心に受けて良い子に育つ。
米国に来た当時の彼は、新しい環境になじめず、夫妻は多額の費用(エイミーは医者、ピーターの職業は本作中では特定していないが、事務所を構え、裕福である)を負担し、精神分析医療を受けさせる。そして、彼らの努力により人当たりの良い、勉強のできる少年へと変身する。 
  


黒人の女教師の存在

 優等生のルースはある時、ベテランの歴史教師で黒人女性ハリエット・ウィルソン(オクタヴィア・スペンサー)から呼び出しがかかる。ルースは彼女から、課題のレポートが暴力をあおる過激思想であると、身に覚えのない非難を受ける。
彼の選んだ課題である「歴史上の人物」は、アルジェリア独立運動の革命家フランツ・ファノンである。北アフリカのアルジェリアは、1830年のフランスの侵攻により植民地化された。同国は独立を願う国民が宗主国フランスに対し、独立戦争(1954−62年)を起し独立を獲得したが、その戦いの中心がアルジェリア民族解放戦線(FLN)だった。
中米に位置する仏領のマルティニーク生まれのフランツ・ファノン(1925−61年)は、同戦線の理論的支柱としてアルジェリア独立を支持。彼は革命家であり、精神科医でもあった。
このファノンについてルースはレポートをまとめたが、革命の暴力的思考をウィルソンに問題視された。ファノン云々(うんぬん)は、現在ならばチェ・ゲバラを題材とするようなもので、別段目くじらを立てるほどのこともないと思える。そして、無断で開けた彼のロッカーの中で花火を見つけ、それを爆発物だとし、彼女の疑念を増長させた。この事件をきっかけに、2人の黒人の確執が始まる。



ウィルソン流統治

 
黒人教師のウィルソンはアフリカ系、一方、ルースは同じアフリカ系ではあるが移民であり、ウィルソンの潜在意識として、「自分は地の黒人」とする優越意識があったと考えられる。
この彼女の教育方針は、被害者の存在を必要としていた。クラスのやる気のない黒人生徒をダメ人間と決めつけ、徹底的に排除する。そして、同じ黒人でもルースのような優等生がいるではないかと、劣等生の烙印を押す統治法である。いわばルースはそのための小道具なのだ。彼女は被害者をあげつらい、自身の権力を保持しているのだ。



エイミー・ピーター夫妻

 ルースの養父母は社会的地位があり、穏健で見識もある、典型的なリベラルな米国家庭だ。それ故にルースを養子とし、彼を立て自らの子作りも断念している。絵に画いたような好カップルだが、ウィルソンの持ち出した非難で2人の良心派的姿勢の足元が揺らぎ始める。
2人は心ならずも、わが子を疑わざるを得ない立場に陥る。すっかり母親気分のエイミーは一寸の疑念を持ちながら息子の肩を持つ。夫のピーターは情緒を排し、現状を鋭く分析してみせる。
貧しい養子を引き受けることは、人道的に正しいことは理解しているが、世間的には、その「代償」を求められる現実に突き当たる。俗っぽい言い方が許されるなら、世間一般が詮索しそうな「美談の裏」の思うつぼである。
そして、ルース一家、ウィルソン、校長と5人による話し合いがもたれる。ここで注目すべきことは、米国社会の話し合い、対話を尊重する社会的風土である。ルースの養父母は問題について絶えず会話を重ね、校長も問題解決のために積極的にルース一家とウィルソンとの対話の機会を設けている。
翻って、わが国はこの話し合いの風土が弱いのではなかろうか。いわゆる「言い放し」、「聞き放し」と、会話が深まらない傾向が見受けられる。



決裂

 5人による話し合い、元はウィルソンがルースのロッカーを無断で開けたことである。ウィルソンはルースのリポートを偏向思想とみなし、正義はわれにありと頑張る。そして第2の矢として、ルースの恋人でアジア系の同級生ステファニーへの性的暴行容疑である。彼女がパーティーで酔い、何人かの男子生徒に犯されそうになったのをルースが救ったとする事件である。被害者とされるステファニーに対し、ウィルソンは「もっと強く生きねば。あなたが弱いから起きたこと、そして闘わねば」と諭す。第2の被害者作りである。
ウィルソン自身、妹が精神を患い、彼女の面倒をみるが、手に余り施設に送り込む。これが彼女の弱みであり、それを隠すために弱いものを攻め、被害者を作り、自身の威厳を保つフシがある。危険思想、爆破物保持、そして性的暴行を盾に攻め込むウィルソンに対し、夫妻は不法なプライバシー侵害と応戦、話し合いは平行線をたどる。



爆破事件

 その後、ウィルソンの教室で爆破騒ぎが起こる。犯人探しが始まるが、疑わしく思える人間ルース、ウィルソンの自作自演、そして第1の被害者であるクラスの黒人少年、第2の被害者ステファニーがいるが、作り手は犯人を特定せず、誰でも起こしうる事件のままとしている。



原作

 本作は、もともとJ・C・リーの戯曲「Luce」の映画化である。1人の優等生を巡る周囲の人々の肌の色の違い、黒人同士の確執、リベラル派白人の脆弱(ぜいじゃく)さを次々と明るみに出す。いわば、社会の奥に潜む人間の在り方や矛盾を鮮やかにスペクタクル・タッチで描き、見る者を引きつける。
ここで大事なことは、優等生ルースが、自分に振りかかる疑念をすべて否定することから始める。そして「自分は優等生を演じているに過ぎない。本当は自分らしく生きたい」と母親のエイミーに告白する場面がハイライトで、この発言こそ本作『ルース・エドガー』を貫く主張だ。
オナー監督は10歳の時、ナイジェリアから米国に来た。今年37歳の黒人である。意欲作だ。






(文中敬称略)

《了》

5月15日よりヒューマントラストシネマ渋谷他全国公開(公開延期の可能あり)

映像新聞2020年5月4日掲載号より転載

中川洋吉・映画評論家