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『さらばわが愛、北朝鮮』
モスクワ映画大学へ留学した8人を追う
明るみになった驚くべき事実
生存者のインタビュー中心に構成

 歴史の中に埋もれた衝撃の事実を暴き出した、ロシア、北朝鮮を舞台とするドキュメンタリー『さらばわが愛、北朝鮮』(2017年/キム・ソヨン監督、韓国、ロシア、80分)が公開中である。韓国の女性監督が1950年代に起きた事件に迫り、インタビューと残された記録から驚くべき事実が明かされる。インタビューを中心に構成するドキュメンタリーであり、当事者たちの証言を丹念にすくい上げている。見ておかねばならぬ1作である。

モスクワの北朝鮮国費留学生たち    
(C)822Films+Cinema Dal ※以下同様

現存のキム・ジョンフン

チェ・グギン映画監督

デモ風景

留学生たちの肖像画(CGで作成)

カザフスタンのクズロルダ近くの森の夕景

ハン・ジンの妻、ジナイダ・イワノフナ

8人の留学生

 1952年、北朝鮮の若き映画学徒8人が、モスクワの全ロシア映画大学(当時の全ソ国立映画大学、通称「モスクワ映画大学」)に留学した。
その時代、北朝鮮からロシアへの国費留学生には、望めば誰でもなれる時代ではなく、ごく限られた若者だけが許された。彼らは母国、北朝鮮では将来を約束されたエリートであった。
その8人の留学青年たち(残された記念写真から女子留学生1人の姿が見える)は、金日成(キム・イルソン)首相(当時の呼称は首相/金正恩〈キム・ジョンウン〉の祖父)の独裁政治体制を批判し、祖国を棄(す)て、1958年にソ連に亡命した。
彼らの亡命には長い伏線がある。一番大きな点は、暗殺と粛清(死刑)を繰り返すスターリンの死去(1953年)後、1956年2月の第20回ソ連共産党大会でニキータ・フルシチョフ第一書記が、今までのスターリンの個人崇拝を批判し、いわゆる「ソ連の春」が出現したことだ。 
  


当時の北朝鮮

 スターリン没後のソ連では、それまでの独裁恐怖政治と別れを告げ、自由到来の期待があった。北朝鮮の留学生たちも期待に胸を膨らませたのは当然の成り行きであった。彼らは、将来を約束される北朝鮮への帰国を断念し、8人そろってソ連に亡命した。
「北朝鮮の冬」を逃れ、彼らが「ソ連の春」を選んだのには、1956年の宗派事件について触れねばならない。
この事件は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)における同年6月から8月にかけて起きたクーデターと反クーデターを経て、かつての抗日戦線の同志たちの多くを粛清、処刑して首相になった金日成の独裁政治の元となった。以降、金一族体制により、今日までの北朝鮮独裁政権が続いている。
このクーデター時の北朝鮮は複数政党の連合体で、抗日戦線を戦った組織が参加し、主導権を巡り対立した。その中にあり、金日成初代首相が権力を握り、他派への粛清を繰り返した。すさまじい権力闘争の結果、彼が北朝鮮を掌握することとなる。
この1956年からの権力闘争に対して、「ソ連の春」を目にし、新しい祖国の姿を思い描いた8人の留学生は、反金日成運動へと走る。北朝鮮政府は、彼らを危険分子とみなし本国召還を図るが、留学生たちは拒否の姿勢を貫いた。



苦難の亡命生活の予兆

 
冒頭、タイトルバックの字幕画面に映る一節は、8人の留学生の心情をよく表している。それは、「人が生まれた場所は故郷と呼ばれるが、骨を埋める地は何というのか」であり、心痛さが伝わる。いわゆる片道切符の8人組は、故郷への帰還の退路を断たれ、ソ連で辛酸を舐める。
女性監督のキム・ソヨンは、製作以外に映画研究でも実績を積み、多くのドキュメンタリーを手懸けた。本作は「亡命3部作」の第3部(完結編)にあたり、高麗と呼ばれたカザフスタン地域を中心とする朝鮮人集団移住者を取材し、ロシア国内でさまざまな苦労に立ち向かう映画留学生たちにスポットを当てている。



登場人物

 本作は2015年に撮影が終了。8人の留学生のうち生存者はキム・ジョンフンとチェ・グギンの2人で、この2人はインタビューで登場するものの、チェ・グギンは同年5月に亡くなる。
もう1人の発言者は、留学生と結婚したロシア人女性ジナイダ・イワノフナで、彼女が亡き夫のハン・ジン(1931−1993)に代わり、当時の模様を述べる。特に、亡命に際し、ソ連政府はパスポートではなく一時居住証を出したことで、留学生たちは無国籍扱いであったエピソードは印象深い。
このハン・ジンを含め、撮影開始時点で、既に留学生8人のうち5人は病没、1人は暴漢の刃(やいば)に倒れている。彼らの居住地域はモスクワではなく、辺境の地ばかり。一番多いのがカザフスタンのアルマトイ(中央アジア)、北の軍港で知られるムルマンスク、中央シベリアのイルクーツク、ウクライナのドネックで、共産主義の理念の実現のために亡命を選んだ留学生たちの活躍できる場とは言い難い。




インタビュー

 留学生たちが学んだ全ロシア映画大学は1919年に設立された。東欧ではグレードの高い映画学校として知られている。教授陣には映画史に残るエイゼンシュタインやプドフキンなどの名が並び、卒業生にはアンドレイ・コンチャロスキー、ニキータ・ミハルコフなどがいる。
最初のインタビューの語り手は、8人組の生存者の1人キム・ジョンフンで、彼はカザフスタンのアルマトイで映画の特殊効果の専門家となり健在である。北の軍港ムルマンスクの後、カザフスタンのアマルトイに定住。最初は北欧を臨むムルマンスクで、後に気候の良い中央アジアの同地に移住となる。
この移住の割り振りには、留学生たちを前途のある映画学徒として扱わず、棄民(きみん)扱いしていることがある。新しい共産主義に身を捧げる決意の青年たちに対する待遇ではない。留学生たちはへき地に配分され、志を得ず亡くなる者もいる。一体、何のためのモスクワでの映画留学であったのか。





証言者たち

 キム・ジョンフンは、アルマトイの公園でインタビューを受け、「生きているうちに言葉は4回変わった。日本語から韓国語、ロシア語、カザフスタン語」と過去について述懐する。彼の激動の人生を物語っている。
彼は8人組の中では映画監督という専門を生かすことができた少数派で、一応、恵まれてはいる。この彼、高麗人(朝鮮人)であるが、高麗自身は母のような祖国ではないとはっきり自覚している。高麗人は、19世紀の中ごろにロシアの中央アジア地域に移住した民族であり、ほかにカザフスタンには130以上の少数民族が住んでいる。
8人組は立派なロシア人だが、政府の北朝鮮対策もあり、無国籍者扱いで、北朝鮮へ強制帰国させられた1人を除き、1度も北朝鮮の土を踏んでいない。





他の証言者

 本作は、前述のように2015年に撮影を終了。インタビュー後に亡くなった、映画監督として実績を残したチ・グギンの発言記録は、当時の留学生の気分をよく表している。「朝鮮に個人崇拝思想があるか、あると思うし、個人崇拝思想は憲法と党内民主主義を抹殺するもの」とし、敢然と金日成の個人崇拝思想を批判している。
この発言こそ留学生の総体的意見であり、1958年を契機に留学生8人の亡命へとつながる。しかし、これが後々、彼らに大変な困難をもたらす。
もう1人の成功組のハン・ジンは、ロシア女性ジナイダ・イワノフナと結婚。彼はロシア語が堪能で、カザフスタンに高麗劇場を主宰し、朝鮮人たちの安息の場を提供した。
キム・ジョンフンやハン・ジン、チェ・グギンなどは、高麗人のために自分たちは何かをせねばならないとの強い意志を持ち続けた。ここに、朝鮮半島出身者たちの強い精神的絆(きずね)が感じられる。
『さらばわが愛、北朝鮮』は、歴史、そして、国家権力に翻弄され続けた高麗人(朝鮮人)の苦難の歴史である。紛れもなく、貴重な歴史の再検証でもある。重い内容の作品だが、見るべき作品の範ちゅうに入る。






(文中敬称略)

《了》

6月27日から新宿K's cinemaにてロードショー中、以降全国順次公開

映像新聞2020年7月6日掲載号より転載

中川洋吉・映画評論家