このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



『シリアにて』
女性の視点から見た戦争の一面
戦場で孤立した家族らを守る一家の主婦
緊迫の24時間を描いた密室劇

 現在も戦火で揺れるシリアを背景とする『シリアにて』(2017年/フィリップ・ヴァン・レウ監督・脚本、ベルギー、86分/英題:IN SYRIA)は、改装休業前の岩波ホール(東京都千代田区)での最終上映作品となる。ホール再開は来年2月の予定である。物語は、戦闘中のシリアの首都ダマスカスにおける、ある一家の24時間を追うもので、死と隣り合わせの中、手に武器を持たない女性、子供たちが主人公だ。

アパートメントの台所
(C)Altitude100 - Liaison Cinematographique - Minds Meet - Ne a Beyrouth Films  ※以下同様

外を見るオーム(右)とメイドのデルハン

ハリマと乳幼児

外の様子を確かめるオーム

ハリマ夫妻

台所から外の様子を見る家族

閂を施した玄関の扉

大家族

 戦火で破壊された街のアパートメントでは、多くの人々が避難(難民化とも言える)し、住民は主人公一家のみとなる。主人公である母親のオーム(ヒアム・アッバス/パレスチナ人ベテラン女優)は、戦地へ赴いた夫に代わり気丈に大世帯を切り盛りする。時に声を荒げ、バラバラになりそうな一家を仕切るが、根は優しい、しっかり者のアラブ女性に扮(ふん)するアッバスはハマリ役であり、アラブ映画界では指折りの大女優であろう。
一家はオームの2女、1男の子供たち、義父、娘のボーイフレンドのカリム、そして部屋を爆撃された隣人ハリマ(ディアマンド・アブ・アブード/レバノン生まれの若手実力派女優)夫妻と生まれたばかりの乳幼児には1部屋を提供、メイドのデルハンを加えて、10人の大世帯である。
オームの家は富裕な一家であろうか。部屋数が多く、子供たちは室内を飛び回るが、攻撃の標的にならぬよう、カーテンは閉め切り、彼らは一歩も外へ出ない。しかし、食料品集めと水汲みのための外出は、スナイパーに狙われない夜を待つ。
幼い息子がふざけて、義父のお尻に針を指すといった安寧なひと時もあるが、日常は爆撃におびえピリピリいる。その中にあり、乳幼児をかかえるハリマ夫妻は、一刻も早くこの窮地からの脱出を願う。
それに応えてハリマの夫は、レバノンの首都ベイルートへの脱出ルートを探し出す。彼は早朝、外の様子を見に出るが、廃墟の建物に潜むスナイパーの犠牲になる。この光景を目の当たりにしたメイドのデルハンは、すぐオームに報告するが、ハリマやほかの家族たちの動揺を抑えるため、口外を禁じる。
まだ息があるかもしれぬ彼を探しに出たいのはやまやまだが、スナイパーの犠牲になることは目に見え、外に出られない状態。これが一家の日常だ。 
  


シリアの内戦

 本作の舞台である2016年のシリアの情勢は、アサド政権と反体制派の対立に、当時、大きな勢力となった「イスラム国(IS)」が絡む3つ巴であった。その後、ロシアがアサド政府軍の後押しをし、ISはほぼ壊滅。現在はロシア・アサド政府軍が反体制派を制圧し、国土の7割を押さえているが、今後の展開は不透明である。
シリア内戦で民間人を含めた死者は38万4000人、難民は1100万人と推定され、新たな民族大移動ともいえる状態だ。大戦を経験した前世紀は「血の20世紀」と言われるが、21世紀になっても平和は訪れていない。



物語の構成

 
今年66歳のベルギー人監督フィリップ・ヴァン・レウは、撮影監督として実績を積み、2009年に長編第1作、ルアンダのジェノサイドを描いた「The Day God Walked Away」で映画監督業に転身する、遅咲きの社会派志向の監督の1人である。
本作の構成も、セミ・ドキュメンタリー・タッチで、なるべく説明的要素を排し、アパートメントのワンフロアを舞台とする手法に徹している。そして、3つの出来事を足場に物語を展開させる。それは、外部との接触時の人間の動きである。
第1は、隣人でオーム宅に身を寄せるハリマ一家の夫によるアパートメントからの脱出だ。彼は家を出た途端、スナイパーの銃撃に遭う。生死は不明だが、家族たちは一命を取り留めたのではと、いちるの希望を託している。
その一部始終を、ベランダのカーテンのすき間からメイドのデルハンが目撃し、女主人のオームに報告する。しかし、オームはハリマの乳幼児のことをおもんばかり、かん口令を敷く。これが後の悲劇の伏線となる。
第2は、玄関に男3人が現れる。オームは巡回か強盗かの判断に迷い、ドアに付けた特製の閂(かんぬき)を開けない。ここでは、侵略者の影を一家全員が嗅ぎ取る。家の中は平穏であるが、一歩外へ出れば地獄であることを、全員肌で感じており、家長(夫の出征の間)であるオームの統率がよく効いている。
次いで、本作のハイライトへと舞台が転換する。外の男性たちがドアを乱暴に叩き、声高に「開けろ」と要求するが、火事場荒しの強盗と察知したオームは、奥の台所(ここが広い)に皆を誘導し、ドアを閉めた。
しかし、強盗の1人がベランダから侵入、乳幼児を探しに別室に駆け付けたハリマは、男たちの手荒い性犯罪に屈する。その様子は、オームを始めとする全員が耳にし、心を痛める。女世帯の悲しさで、何ら手の施しようがない。
台所の人々は耳だけに伝わるハリマの犠牲に、次は自分の番かと恐れおののく。ハリマも幼い子のために暴力にあらがえず、妥協せざるを得ない。全員の脳裏に一生焼き付けられる事件だ。無礼を覚悟で言えば、決して珍しい話ではない。暴力は常に弱い方へと襲い掛かるのだ。



似た例

 脱線になるが、旧日本軍の中国、満州侵略でも同じ事例がある。1945年敗戦の年、国境を越えてソ連兵が侵入した。日本から押し出された長野県黒川村(現・白川町)の満蒙開拓団のリーダー格の1人が、団の安全を守るために、18歳以上の未婚女性を性接待に差し出した。男性たちは無事帰国、被害の若い女性たちは一生、恥辱の負の遺産を背負ったままとなった。
戦後、彼女たちは身内の団の男性から受けた「ロスケ(ロシア人)にやられた女」などの中傷にも苦しめられる。心痛い話である。最近になって、性接待に差し出された彼女たちがやっと口を開き当時のことを語り始め、この事件が知られることになった。




事件後

 1人犠牲になったハリマは、「なぜ、私だけ台所に入れなかったの。皆を守ろうと私だけが犠牲になったの」と、猛然とオームに噛みつく。ハリマが子供を探しに、ちょっと台所を離れた直後に強盗団が侵入。オームは、ほかの全員を守るため、ドアを閉めることを決断した。彼女はハリマに「時間がなかったから」と逆切れし、応酬する。
2人ともに理はある。そして家族の皆は助かる。ハリマに感謝せねばならぬ状況だ。姉妹の下のアリヤは、泣いて「申し訳ない。自分が被害者でなく本当によかったとしか考えなかった」とハリマに謝罪する。
この修羅場においては、アリヤが全員の気持ちを代表している。不幸であり、最悪の対処だが、皆、胸に収めねばならぬ状況だ。この、人間の醜いが止むを得ない本性が、ここに現われる。密室劇で、女性の視点から見る戦争の一面の描き方に説得力がある。レウ監督のシナリオ構成が、実に堅ろうで抜けがない。
作中、直接描写を避け、音と住人の反応のみにて恐怖をもたらす演出も並ではない。人生の困難を戦場で孤立した家族(隣人も交じる)を通し、立ち向かう姿勢に品格すら感じさせる。






(文中敬称略)

《了》

8月22日よりロードショー、岩波ホールほか全国順次公開

映像新聞2020年8月24日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家