このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』
軍と住民との板挟みになった官選知事
日本敗戦までの5カ月間在任
戦争の悲劇を伝える証言で構成

 最近、ドキュメンタリー作品に勢いがある。前号(3月8日号)の『夜明け前の歌』(原義和監督、2020年)に続き、今回取り上げる、沖縄戦の悲劇を描く『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』(以下『島田叡』/佐古忠彦監督、21年)と、2本の沖縄ものが立て続けに公開される。沖縄の戦時を扱うこの2作に加えて、労作『証言 沖縄スパイ戦史』(三上智恵監督、18年)は、日本人にとって、沖縄戦はどのようなものであったかを検証する良い機会を与えてくれる。

慰霊祭 磨文仁の塔  (C)2021 映画『生きろ 島田叡』製作委員会  ※以下同様

手を合わす女性

大田元知事(証言者)

山里和枝(証言者)

轟の壕

米軍沖縄侵攻 LAタイムズ

米軍の艦砲射撃

島田叡が携えた2冊の本

慰霊祭で演奏する女性たち

沖縄県最後の官選知事

 島田叡(しまだ あきら、1901−45年)の名は、多くの人には知られていない。第二次世界大戦敗戦前、沖縄県最後の官選知事であり、日本敗戦までのわずか5カ月間在任し、敗戦前に自決した。仮に、日本政府が8月15日前に敗戦を受け入れれば存命し、その後活躍する人材だったであろう。
彼は、兵庫県生まれ、三高(旧制第三高等学校)、東大を経て、内務官僚となる。地頭の良さは金箔付きである。また、スポーツにも優れ、東大時代は野球のスター選手でもあり、「野球殿堂博物館」(東京ドーム内)に建立された戦没野球人モニュメントに彼の名が刻まれている。
その島田叡は1945年(日本敗戦の年)、内務官僚として大阪府庁内政部長勤務中に沖縄県知事に抜擢され、同年1月31日に着任する。
沖縄行きに関し、米軍上陸必至とみられ、多くの官僚たちが沖縄行きを尻込みするご時世である。前任の沖縄知事、泉守紀は、東京に出張中であるにもかかわらず、そのまま香川県知事に転任。敵前逃亡にも等しい行為に批判を浴びた。
なり手のいない沖縄県知事に、島田叡は「誰かが行かねばならぬなら、自分が行く」と、死を覚悟で沖縄行きを受け入れる。大した気概の持ち主だ。用心深く、エエトコ取りの高級官僚らしからぬ見上げた心根の人物と想像できる。しかも、家族を巻き込まない配慮か、家族には一言も告げず、1人旅立った。 
  


沖縄戦史

 1944年10月10日、米軍は南西諸島全域に大空襲(十・十空襲)を敢行、延べ1396機による9時間にわたる空爆で、那覇の町の9割が焼き尽くされる。
その前夜、日本軍幹部たちは大掛かりな図上演習を翌日に控え、各地の司令官を集め大宴会を催し、爆撃の反撃もできぬありさまであった。当時、沖縄住民の食糧不足は深刻な状態にもかかわらずの大宴会。ここに、住民そっちのけの軍の「おれ様体質」がうかがえる。
そして、45年3月26日には、米軍と英軍を主体とする連合国軍が沖縄諸島に上陸し、沖縄戦が勃発。沖縄は敗戦まで戦場の島となる。
名匠・新藤兼人監督に戦時中の話を伺ったことがある。一兵卒として広島に配属された同監督は、敗戦を迎えた軍内部の様子を語った。住民は米不足による食糧難、一方、軍隊内には、米、酒、たばこ、そして当時貴重品の砂糖が山ほど備蓄されていた。同様のことが日本各地で起きていた。



作品の手法

 
このドキュメンタリー『島田叡』は、非常にシンプルに作り上げられている。基本はナレーションで概要を説明し、状況を伝える。50年以上前のことであり、当時の映像はなく、証言で状況を伝える場面をはめ込んでいる。この作りは証言集であり、ドラマとは異なる迫真性がある。この手法に沿い、中心は証人の生の言葉となる。


疎開

 県庁と軍は、住民を安全のために九州へ疎開させるくだりがある。証人が当時の様子を語る。気の進まない疎開であり、住民たちのほとんどが、今住んでいる土地を離れることを嫌がる。それを知事の島田叡や県庁の役人が懸命に説得し、疎開を受け入れさせる。
証人がその場面を思い出し、『ラバウル小唄』を替え歌にして「さらば沖縄よ、また来る日まで、しばしの別れ」と歌う光景は忘れないと語る。疎開者が、島影が消えるまで手を振って歌う別れの一コマだ。実像がなくとも、その証言が当時を再現する。



二律背反

 県庁と軍は、決して仲は良くない。簡単に言えば、県庁の仕事に対し、軍が主導権を取りたがるケースである。前述の泉・前知事の沖縄逃走は、普通に言えば、トンデモない行為と受け取られても仕方がない。しかし泉・前知事は元来、大の軍隊嫌いであり、彼の離任にはこの確執が底流にあると推測できる。
これは島田叡も同様である。彼は元々リベラル派で、統制を好むタイプではない。しかし、立場上、表立って角突き合わせることは許されない。軍は「われわれと運命を共にせよ」と説くことで、住民に玉砕主義を徹底したが、島田叡は「私は何としても県民を守らねばならぬ」と述べる。表と裏の顔を持たざるを得ない二律背反(にりつはいはん)に彼は陥る。



鉄血勤皇隊

 島田叡は「軍には協力する、勝つために」と訓示する。しかし、中学の卒業式で彼は、少年兵動員を意図する「鉄血勤皇隊」は戦闘要員ではないと、少年たちを守る発言をする。この場面の証人の大学教授は「軍の方針は根こそぎ動員である」ことを明言する。実際、軍隊は13,14歳の子供でも、見つけては戦闘動員にしている。
鉄血勤皇隊に動員された経験を持ち、辺野古基地反対の立場をとった大田昌秀・元知事は、ずばり「軍が県に対し要請というのは、当時は命令」と喝破。それを拒否すれば、知事として職務を果たせない。住民は一緒に玉砕するのだと軍は公言をはばからず、その状況下で島田叡は住民の命を守ろうとしたと、大田の証言は軍隊の隠された本音を明らかにしている。



善人・島田叡

 島田叡は、頭脳明晰な人間にありがちな、上から目線、人に冷淡、自己中心、底意地の悪さはなく、善意あふれる人物である。赴任後、沖縄の食糧難を目の当たりにし、米3000石(こく/1石=約145km)分を買い出しに台湾へ行く。これが彼の初仕事。
部下の少年に貴重な黒砂糖を、死の直前、歌を教えた少女に白い万年筆、別の部下には胸ポケットの札束をプレゼントしている。奉仕をいとわない善意の人物である。



佐古忠彦監督

 監督の佐古忠彦は現在56歳でTBS報道局勤務のエース・ディレクター(時にプロデューサー)である。番組『報道の魂』(現『JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス』のプロデューサーを担当するなど、ドキュメンタリー畑が長く、監督を務めた代表作、傑作『米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー、不屈の生涯』(2017年)では、沖縄人の矜持(きょうじ)を描いている。
徹底した資料の渉猟(しょうりょう)に基づく彼の作風は、本作でも十二分に発揮されている。



自決

 最終的に、島田叡と牛島満司令官は、終戦を待たず自決する。島田叡は6月26日に壕(防空壕)を出て帰らぬ人となる。ピストル自殺説が強いが死因は不明。遺体も発見されていない。
一方、住民9万人を犠牲にした軍は、牛島司令官1人だけの死で、果たして謝罪になるのか、大いなる疑問だ。「天皇陛下のため」、「生きて虜囚(りょしゅう)のはずかしめを受けず」と説き、住民へ玉砕主義を刷り込み、米軍への降伏を阻止する軍の方針は万死に値し、人の命に対する慈しみを欠く。
前述のように、日本政府がもう少し早く停戦を受け入れたなら、多くの犠牲者を出さずに済んだはずだ。証言の中で、死に行く住民が口にした「恨むぞ東条(英機)、東条恨むぞ」の声こそ、住民の本音であろう。




島田叡の信念

 住民を力ずくで死へと追い込む軍に対し、住民の安全を叶えるべきとする信念を持つ行政官、島田叡は、板挟みの状態であったことは容易に想像できる。彼の後世への希望を託す言葉は「生きろ」であり、彼の信念であった。




(文中敬称略)

《了》

2021年3月6日より沖縄・桜坂劇場 先行公開
2021年3月20日より東京・ユーロスペースほか全国順次公開

映像新聞2021年3月15日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家