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『海辺の家族たち』
父の最期に3人兄妹が久しぶりに再会
それぞれの人生の挫折と希望
社会性重視し移民問題を盛り込む

 フランスの異色映画監督、ロベール・ゲディギャンの『海辺の家族たち』(2016年/ロベール・ゲディギャン監督・脚本、フランス、107分/原題:La Villa〔邸宅の意〕)が公開中だ。彼は、地中海の玄関口であるマルセイユ生まれ、マルセイユ育ちの南フランス人で、作品も素材も生まれ故郷に根ざしたものが多い。

長男(右)、次男(中)、末娘(左) (C)AGAT FILMS & CIE - France 3 CINEMA - 2016  ※以下同様

港町

次男(右)と末娘

一家団らん

末娘と若い恋人

次男と別れた婚約者(左)

港での一コマ

末娘と若い恋人

入り江を行く漁船

移民の少女

日本では知られぬ監督

 マルセイユに根を下ろしたゲディギャンは、生まれ故郷への強い愛着があり、2015年ごろまで同地にとどまり、その後、拠点をパリに移している。しかし、彼を語る上で、この地域性を抜きにしては語れない。
学生時代に結婚した夫人は、女優のアリアンヌ・アスカリットで1歳年下である。夫の作品にはいつも主役で出演。ゲディギャン夫妻の場合、フランス映画の中心のパリに本拠を置かず、地方にとどまり、パリ中心のフランス映画界から遠く、地域映画とみなされていたフシがある。
また、出演者も"お友達"で、その辺りにフランスでの知名度不足の因がある。もちろん、わが国においては、ほとんど無名だ。 
  


コミュニスト・ゲディギャン

 ゲディギャンの作品は、いわゆる労働者階級の人間を扱い、彼自身もフランス共産党のシンパである。この点では、英国のケン・ローチ監督と同タイプといえる。
ローチ監督の場合、現状の英国における資本主義制度の弊害を突く作品が多いところに特徴がある。ゲディギャン監督は、労働者階級の家族に焦点を当てており、両監督の風合いはかなり異なる。
彼を評し、アマチュアリズムとする向きがある。彼の強みは、低予算作品の地方在住監督でありながら、2年に1本ぐらいは製作を続けていることである。新人監督、知名度の薄い監督で、2年に1作は大したことなのだ。その作品の核は、夫人で主演のアスカリットにあるようだ。
労働者階級を描くローカル(マルセイユ地方)にこだわるゲディギャン監督は、注目すべきベテラン監督といえる。だが、興行性よりも自己主張と社会性を優先する辺りが、彼の持ち味といえる。
日本でも、もっと知られていい監督で、ヌーヴェルヴァーグ作品だけがフランス映画とする人々の対極に位置する監督だ。彼は「第6回フランス映画祭 横浜」(1998年)の際に来日し、『マリウスとジャネット』(96年)を出品した。



冒頭

 
美しい入江の中腹にある豪邸(La Villa)から海を一望するベランダで、1人の老人が海をじっと見つめている。マルセイユからコート・ダジュール方面への美しい海岸線に、小さな昔の漁港を思わす入江が散見される。昔は地元の人々が住む漁港であり、バブルのころまでは平穏な田舎町であった。
小さいながら、にぎわう港町。風情にあふれ、海に向かって開けた光景から朝日、夕陽が空を染め上げる。地元の人にとり、幸せな光景の広がりであった。しかし、バブル経済時期に地価が高騰、それが呼び水となり地元の人は土地を手放し、町は昔の面影をすっかり失い、ただの南仏の保養地に様変わりした。



それぞれの悩み

 3人兄妹が久しぶりに再会する。長男アルマン(ジェラール・メイラン、ゲディギャン監督の幼なじみ、彼の作品の定連)、次男ジョゼフ(ジャン=ピエール・ダルッサン、ゲディギャン監督、アサイアス監督作品出演、自然体の芝居を得意とする名優)、そして末っ子で女優のアンジェル(アリアンヌ・アスカリッド、最近では「Gloria Mundi」〔2019年〕で、ベネチア国際映画祭主演女優賞を受賞)である。
3人とも、なぜか浮かぬ表情だ。アルマンは父の遺したレストランを継ぐ気持ちはあるが、町が往時の賑わいを失い、迷っている。さらに死期の近い父の看護もあり、これも彼にとり厄介な問題である。  
ジョゼフはかつて、労働者階級の革命と苦しみを描く左翼作家を志し、学校の講師をしながら小説家を目指すが、第1作以降出版社からのボツの連続。労働者階級の世界を目指す夢が頓挫し、皮肉っぽい中年男となる。
ジョゼフは講師時代の教え子、年若いヴェランジェール(アナイス・ドゥムースティエ)と婚約するものの、彼女は、かつての革命青年で、今は世を斜に構える中年おやじに愛想を尽かし、2人の仲はギクシャク。だが彼は、若い婚約者に未練たらたら。
彼らのレストランの前には、老いた叔父夫妻と、近隣の病院勤務医で独身の一人息子が住む。医者の息子は、定期的に両親のもとを訪れる。皆、それぞれ悩みを抱えての毎日である。
特にアンジェルの場合は深刻で、20年の長きにわたり帰郷しなかった経緯がある。彼女は以前、バカンスで父宅に滞在中、8歳の娘ブランシュをボート遊びで溺死させた過去があり、その悲しみを引きずり、今までパリからマルセイユ近郊の父母の家に戻らなかったのだ。
父親も孫の死に心を痛め、アンジェルには1/3の遺産の内25%分を上乗せし彼女に遺す遺言状を書くが、トラウマから解放されるために、増額分の受け取りを拒否する。彼女なりの再出発である。
錯綜(さくそう)した人物関係も面白く、現実感があり、話の弾みも良い。何よりも優れているのは、家族1人ひとりの個人的事情の在り方だ。それぞれが、人生の問題を抱えながらも、何とか解決の糸口を見つけ出し、人間性をよみがえらせる。
失意のアンジェルは、年若い漁師の信奉者を見つける。小説家志望のジョゼフは、若い婚約者と別れ、郷里にとどまり、いま一度執筆の世界へ戻る決意をする。長兄アルマンは、労働者階級出身の両親が心掛けた、手ごろな値段で、皆が来やすく食事ができるレストランを継ぐ。
それぞれの道を行く堅実さを身に着けている。華美・豪華な人生は、彼らの眼中にない。この労働者階級出身の子弟たちの生き方が、ゲディギャン監督の狙いであろう。この慎ましやかな中流家庭家族の足元に、現代社会の大きな問題である出来事が周辺に起き始める。



サブのテーマ

 ある時から、入江の周辺に警官の姿を目にするようになる。コロナ禍ご時世以前の欧州の大きな社会問題は、地中海を渡る移民たちである。上陸を果たしたものの、すぐに警察に発見され、過酷な本国への送還が待ち受けている。何のための苦しい越境であろうか。この移民問題がサブのテーマであり、ゲディギャン監督の左翼的良心の表われであろう。
このシチュエーションは、いささか唐突で無理があるが、監督は、ぜひとも入れたかった場面と考えられる。彼にとり、社会性のない作品は映画ではないとの信念の表れであろう。逆に言えば、興行性から見ると、彼の信念が一般性を欠き、日本での登場が遅れた一因と推測できる。
もう1つ、ゲディギャン監督の作品で注目すべき点は、家族のつながりの濃さである。持ち前の戦闘的体質を優しく包み込む手法として、家族を重用している。
マルセイユの映画監督の彼、ある時から、愛して止まぬ故郷を離れ、パリに定住している。
現在のフランス映画を資金的に支えるのは、テレビ各局の拠出金であり、この流れに沿い、彼も活動の中心をパリに移した。日本人にとり、ゲディギャン監督の名が新鮮に映ることを望む。彼の作品は面白く、力(りき)がある。




(文中敬称略)

《了》

5月14日からキノシネマほか全国順次公開

映像新聞2021年5月17日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家