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『オキナワ サントス』
沖縄からブラジルへ渡った人々の証言
日系移民強制退去事件の真実
封印された独裁政権の強硬措置

 気鋭の若手作家による、沖縄移民の知られざるドキュメンタリーが公開中である。それが、現在まで取り上げられなかった、ブラジルへ渡った沖縄移民についてのインタビュー構成による『オキナワ サントス』(2020年/松林要樹監督・撮影・編集、90分)だ。戦前から1945年の敗戦後に、多くの沖縄の人々がブラジルを目指し、玄関港サントスの土を踏んだ。
 
ブラジル移民とは、戦前、戦中、戦後にブラジルに渡った人々のことで、敗戦前1943年7月8日に「サントス、日系移民強制退去事件」が起こる。
同様なことは米国でも起きており、参考のため付記する。1941年の真珠湾攻撃を契機とし、反日機運が高まり、米国2世も含めた日系人は強制収容所へ送られる。彼らは家・財産を没収され、無一文で収容された。この中には、広島から移民として渡った映画監督・新藤兼人の姉、久代も含まれる。ただし、ドイツ人、イタリア人の収容はなかった。
当時の社会情勢から、日本人移民は2等国民扱い。久代は4年間の収容所生活の後、無一文から花農家として成功する。米国の収容所の話は、新藤兼人著「青春のモノクローム」(1988年、朝日新聞社刊)の最終章「きょうだい」の項で触れられている。

佐久間正勝ロベルト(事件当時7歳)、移民収容所跡を訪れる  (C)玄要社  ※以下同様

収容所行の満員列車を掲載する地元紙

サントス居住者リストのチェック

資料整理中の沖縄県人会、宮城あきら(左)

アウシュヴィッツを思わす、強制収容所へ向かう途中駅

「日本はブラジルの脅威」(著作)の差別的表紙

普天間オルガ、シネマテーク館長、事件が語られない背景を証言

サントスの街並み

上新(カミ・アラタ)元日本人会会長、当時94歳(前)

ニッケイ新聞編集長、深沢正雪

宮城あきら、戦後ブラジルに渡る

「サントス強制退去事件」とは

 ブラジルのサンパウロ近くの港がサントスである。1943年にナチスのドイツ潜水艦がブラジル商船3隻、米国商船2隻を撃沈、この事件が強制収容の一因となり、サントス在の日本人移民6500人、ドイツ移民数百人が強制移動させられた。
当時のブラジル・ヴァルガス独裁政権は手始めに、1938−41年の間にサントスの20万人の日系移民に対し、日本語新聞の廃刊、日本語学校の閉鎖、公の場での日本語使用禁止を命じる。そして、43年7月8日にダメ押しのように、24時間以内の強制退去命令を突き付けた。文化の分断にも等しい強硬措置である。
この一連の政策は米国同様、「どうせ食い詰めた日本人だから」と、ブラジル人が日本人を2等国民とみなす社会的風潮が感じられる。一方、逆に農業者として地道に働く勤勉な日本人に対する反感も混じっていたのではなかろうか。
そして日系移民たちは、ブラジル社会に溶け込むことを最優先し、ことを構えるのを用心深く避け、当事者たちは75年の長きにわたり口をつぐんだ結果、「強制退去」事件を意図的に封印したと考えられる。
筆者の個人的体験では、長期間外国に滞在すると、住んでいる国の悪口は言わないことを「大人の作法」で学ぶ同胞がいる。似たような心情なのだろう。 
  


語られない事件の歴史

 松林監督は、ブラジルのニッケイ新聞編集長から、「強制退去」事件の全貌を初めて聞く。彼だけが初耳ではなく、多くの日系移民もほとんど知らない事件なのだ。24時間以内の退去。全員翌朝にカバン1つで駅に集合、列車に乗せられる。幼い子供を持った人、妊婦の困惑などお構いなし。
この事件を仕切った政治警察が、戦後も力を持ち続けたことも、事件の公表が遅れた理由の1つだ。当時の地元紙には、日本人移民が列車を待つ長蛇の列の写真2枚のみが掲載された。政府側も積極的に説明責任を果たす気もないさまが見て取れる。



移民たちの苦難

 
前述のように、極端に言えば身ぐるみ一切を、はぎとられた人々の収容所送りであり、中には隣人たちが、白昼堂々と家財・農機具を持ち去る行為もあり、移民たちは無一文に陥る。
戦後、解放された彼らは、とにかく生活の立て直し一筋で生き延び、そのころのことを「まるで、夢のようであった」と証言する。多分、事件を非現実のものととらえたかったのであろう。
証言者たちの老人は、ほとんどがポルトガル語を話し、立派な邸宅に住む人たちで、ブラジル社会に溶け込むことを第一義として、旧軍隊ばりの「月月火水木金金」の休日なしで働いたことがうかがわれる。



サントス日本人会の名簿

 事件の周辺取材を続ける松林監督は、日本人団体とのコンタクトは調査上欠かせないもので、サントス日本人会との接触で、当時の居住者名簿の存在を知る。この名簿の発見が、その後の大きな手掛かりとなる。
次いで、この名簿を、ブラジル沖縄県人移民研究塾の宮城あきらに見せる。彼は、この名簿を第一義の資料と受け止める。その後、沖縄県人会の協力を得ることとなる。日系移民の間で、長らく語られなかった事件を知る。



大勢の沖縄出身者

 名簿によれば、在サントスの日本人グループは585家族で、その約6割が沖縄出身者である。彼らは、戦前、あるいは戦中にブラジルに渡る。当時は独裁政権下に加え、移民たちへの反感などもあり、日系移民は強制収容された。
財産を没収された彼らは苦難の道をたどり、現在の生活を築き上げる。ここに、日本人の勤勉さとお上に対し異を唱えない生き方が作られたのであろう。
戦後の沖縄移民の中には、米軍の侵攻を直接知る人がいる。前述の、沖縄県人会の宮城あきらだ。当時、沖縄住民は日本軍より手榴弾を渡されたが、これは「邪魔だから死んでくれ」との意味合いが含まれている。その九死に一生を得た一部の人たちは戦後ブラジルに渡る。その中に前述の宮城あきらがおり、今回の松林監督作品の製作に協力する。


沖縄人の苦い体験

 大勢の沖縄移民は、大半が経済的理由で移民の道を選んだが、与えられた農地は緑の大地ではなく、石ころだらけの荒れ地で、そこを一生懸命に耕しこれからというところに太平洋戦争が始まり、強制収容所送りとなって全財産を失う。そして、戦後数えきれない、苦難に立ち向かいながら、彼らなりの現在を作り上げた。写真の佐久間正勝ロベルトはサントス生まれの日系3世である。




沖縄移民の人々

 苦難に正面から立ち向かう沖縄移民の人々は、80歳以上の老齢者だが、彼らは一様にポルトガル語を日常会話とし、ほとんど日本語は話さない。そして、過去の記憶が鮮明で、認知症らしき症状は全くなく、頭はしっかりしている。皆、元気そうだ。
当然、病気を抱えている人もいるだろうが、外見上はかくしゃくたる老人たちである。苦難の一生ではあるが、ボケーとして生きてこなかった証拠である。逆境と闘いながら生きることは、人間を強くするのであろうか。





フィクションのような味わい

 松林要樹監督は、1979年、福岡県生まれの42歳、日本映画大学卒(旧日本映画学校〔3年制〕)。作品には、傑作ドキュメンタリー『花と兵隊』(2009年)がある。戦後、タイ・ビルマにとどまった未帰還兵のインタビューで構成し、戦後、日本軍の末路と、それを拒否する元日本兵の姿を追う作品だ。
2016年に文化庁の新進芸術家研修制度でブラジル・サンパウロに滞在。この時期に本作の事件を知ったと想像される。インタビューは実写フィルムで構成されるが、まるでフィクションのような味わいがあり、編集の腕を感じさせる。
筆者は本作に対し、1つの疑問を持った。「今、なぜサントスの事件なのか」をもっと語ってほしかった。





(文中敬称略)

《了》

7月31日より、沖縄桜坂劇場にて先行上映
8月7日より、東京シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

映像新聞2021年8月9日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家